ってしまってから、はっとしたらしかった。
 いやな沈默がつづいた。庭では蝉がじいじい鳴いていた。
「恭一、――俊三、――」と、お民は次の間の方に顔を向けて二人を呼んだ。二人がやって来ると、力のない声で、
「お祖母さんがお帰りだから、今日はお前たち一緒にお帰り。またすぐ来ていいんだから。」
 そう言って彼女は眼をとじた。眉根にはかすかな皺がよっていた。
 本田のお祖母さんは、不機嫌な顔を強いて柔らげながら、丁寧に正木のお祖母さんに挨拶した。お民にも何かと親切そうな言葉をたてつづけに言った。そして二人の孫を促《うなが》して立ち上った。
 実をいうと、本田のお祖母さんは、恭一や俊三に病気をうつされるのが恐かったのである。それを体《てい》よくごまかそうとして、妙な羽目になったので、病室を出てからも、正木一家の人達に対して、よけいなあいそを言わなければならなかった。そんなわけで、彼女はいよいよ正木の家を辞するまでには、大方小半時もかかった。
 次郎は見おくっても出なかった。彼は畳の上にねそべって、母の青い顔を見つめていた。すると、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた。それは不思議なかがやきをもって彼の心にせまった。
「母さん、どうしたの?」
 次郎は、はね起きて母の枕元によって行った。母は、しかし、もうその時には、うるんだ眼に、微笑をたたえて、次郎を見ていた。そして、
「次郎だけは、いつもあたしのそばにいて貰えるわね。」
 次郎は、彼の五六歳ごろから見なれて来た母の顔を、もうどこにも見出すことが出来なかった。そこには全くちがった母の顔があった。そしてその顔から、お浜にも、春子にも、正木のお祖母さんにも見出せなかったある深い光が、泉の底の月光のように、静かにふるえて流れ出しているのを、次郎は感ずることが出来たのである。

    三八 再会

 九月の新学期が始まるころには、次郎の眉も可笑しくないほどに伸びていた。皮膚の色はまだまだらだったが、人に気味悪がられるほどではなかった。次郎はむろん学校に行くつもりでいた。しかし、お民の病気は、すでにその頃は危篤に近い状態だったので、引きつづき休む方がよかろうということになった。
 次郎は、実は一日も早く竜一に会ってみたかった。会って東京の様子もきき、また春子がいよいよ本式に上京するのはいつ頃になるのか、それも知りたかった。で、彼は、学校は三十分もかからないところだし、出来れば一寸でも出てみたい、と思わないではなかった。しかし、お民はこの数日、次郎の姿が見えないと、不思議なほど寂しがった。そして彼に薬をのませて貰ったり、手を握っていて貰ったりするのを、何よりの楽しみにしているらしかった。飲みたくない薬でも、次郎の手からだと、喜んで口にするというふうだった。
 次郎にしても、母のその気持には、こみあげて来るような喜びを感じた。彼は、母を看護することによって、彼がかつて知らなかった純な感情を昧うことが出来た。彼の行為は、少くとも母の枕頭でだけは、偽りも細工もない、ひたむきなものになっていた。で、竜一に会ってみたいという気持も、彼を何時間も病室から引きはなしておこうとするまでには強く仂かなかった。
 お民は、いよいよいけなくなる四五日前、枕元に坐っていた次郎の顔をまじまじと見ていたが、その眼を正木のお祖母さんの方に向けて言った。
「お浜の居どころはわかりましたか知ら。」
 次郎は、このごろ、お浜のことはほとんど忘れていた。彼には「お浜」という言葉が、全く耳新しくさえ響いた。それに、彼の記憶に残っている限りでは、母とお浜とは、仲のいい間柄ではなかった。だから、母のその言葉を聞いた時には、彼は喜ぶというよりもむしろ不思議に思ったくらいであった。お祖母さんは答えた。
「ああ、そうそう、まだお前には言わなかったのかね。何でも、駐在所の方に頼んで調べて貰ったので、よくわかったんだそうだよ。やっぱり今でも炭坑で仂いているんだとさ。」
「では、呼んで貰いましょうか知ら。」
「そうかい、是非会いたけりゃ、すぐにでも呼べるんだがね。でも、お前大丈夫かい。ひさびさで会って、気が立ったりしては、病気に悪いんだがね。」
 実は、お浜には二三日前に、すでに正木の老人から手紙が出してあり、まさかの時には電報を打つから、すぐ来るようにと、必要な旅費まで送ってあるのだった。お祖母さんはそれをお民にかくしていたのである。
「大丈夫ですわ。」
 お民はにっこり笑って、また次郎を見た。
 電報がすぐ打たれた。次郎はそれから妙に浮き浮きしだした。しかし、それは嬉しくてたまらないからではなかった。嬉しいには嬉しいが、その奥に不安とも、好奇心ともつかぬ、えたいの知れないものが動いていた。彼は自分の落着かない気持を自覚
前へ 次へ
全83ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング