けに彼は次郎を呼んで言った。
「お母さんに見えるところで、兄弟喧嘩をするんじゃないぞ。」
 次郎は、自分はどうせ喧嘩をするものだときめてかかっているような父の口吻《こうふん》が、ちょっと不平だった。そして、
(母さんに見えるところでなくったって、喧嘩なんかするもんか。父さんは、このごろ自分がどんなだかちっとも知らないんだ。)
 と思った。
 火傷のことは、俊亮はもう何とも言わなかった。次郎は安心したような、物足りないような気持で、父に別れた。
 火傷をしたあと、母の薬を貰いに行く役目は、従兄弟たちが代ってやってくれた。春子にあえる楽しみもないし、かりにあえても、彼女に見苦しい顔を見られたくなかったのだから、次郎としては大助かりだった。それに、恭一や俊三がやって来てからは、うまい口実が出来たような気がして、めったに病室にも落ちつかなかった。彼は誠吉と一緒に二人を近くの溜池につれ出してよく鮒を釣った。
 四五日して、珍しく本田のお祖母さんがやって来た。今度は火傷のことが大ぎょうに問題にされた。彼女は、お民の病気よりその方の話により多くの興味を覚えるらしかった。彼女は幾度も幾度も、
「親不孝の天罰というものでございます。」と言った。そして次郎に対して、
「お母さんの病気が重くなるのも無理はないよ。それでお前は看病をしている気なのかい。」
 と、いかにも、みんなの前で自分が責任を以て次郎を戒めている、といったような調子で言った。次郎はその時そっぽを向いていた。すると、本田のお祖母さんは、正木の老人の方を向いて訴えるように言った。
「ほんとに、どう致したらよいものでございますやら。すぐにも私の方に引取らなくてもよろしゅうございましょうか。」
 誰も、しかし、真面目になって受け答えするものがなかった。次郎にもよくその場の空気が呑みこめた。だから、彼はあまり腹もたてず、かえって、それ見ろ、といったような気にさえなるのだった。
 本田のお祖母さんが来たのは、午少し前だったが、三時ごろまで病室に坐りこんで、正木のお祖母さんを相手に、病人を預けておく言訳やら感謝やらを、くどくどと述べたてた。むろんその間には、次郎のこともしばしば話の種になった。そして、彼女はとりわけ調子を強めてこんなことを言った。
「お民さんにせよ、次郎にせよ、遠く離れていますとよけいに気にかかるものでございまして、わたくし、このごろ毎晩のように二人の夢を見るのでございます。」
 次郎たちは、次の間からそれを聞いていた。
 しかし、三時をうつと、彼女は急にそわそわし出した。そしていかにも言いにくそうに、
「わたくし、一晩ぐらいは看病もいたさなければなりませんが、今日は俊亮もちょっと遠方に出ていますし、店の方が小僧任せにしてありますので、日が暮れないうちにお暇いたしたいと存じます。まことに勝手でございますが……」
 お民も、正木のお祖母さんも、ほっとしたらしかった。しかし、本田のお祖母さんはすぐには立ち上らなかった。そして、次の間にいた子供たちの方に眼をやりながら、言った。
「ああして大勢ご厄介になっているのも、かえって病人の邪魔になるばかりでございましょうから、一先ず、わたくし、つれて帰りたいと存じます。次郎も、もし火傷の薬さえきまって居りましたら、一緒でもよろしゅうございますが……」
 次郎は、それで自分も一緒に行くことになりはしないか、などと心配する必要はすこしもなかった。しかし、恭一や俊三に帰ってしまわれるのは、いやだった。まだ一度だって喧嘩もしていないし、それに、恭一には、中学校の入学の参考になることを、これからもっと聞きたいと思っている。第一、母さんの病気が重いのに、帰ってしまうのはよくないことだ。今は休みなんだから。――彼はそんなことを考えて病室の様子をうかがっていた。
「邪魔なんてことはちっともございません。お民も毎日三人のそろった顔が見られるのが楽しみのようでございますから。」
「それはさようでございましょうとも。でも、私どもといたしましては、病人をお預けしたうえに、みんなで押しかけて参っているようで、まことに面目がございませんし、やはり行ったり来たりということにさせていただきたいと存じて居ります。」
「そんなことは、こちらでは何とも思うものはございませんが……」
「そりゃもう、こちら様のお気持はよくわかって居りますし、いつも俊亮ともそう申しているのでございます。でも、やはり世間の眼もありますので……」
「世間など、どうでもよいではございませんか。それを言えば、第一、病人をお預りすることからして間違っていましょうから。」
 正木のお祖母さんは、別に皮肉を言うつもりではなかった。しかし、それは本村のお祖母さんにとっては、何よりも痛い言葉だった。正木のお祖母さんも、言
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