して、それを母に見せまいとつとめたが、彼の動作はいつもそれを裏切った。彼は用もないのに、部屋を出たり入ったりした。薬の時間でもないのに、ひょいと薬壜《くすりびん》をとり上げ、その目盛をすかして見たり、栓をぬいてみたりした。また、ぽかんとして庭を見つめていて、急に気がついたように母の顔をのぞいたりした。お民は彼のそんな様子を見ながら、いつも微笑していたが、彼はその微笑にでっくわすと、よけいにそわそわした。
 お浜は、電報を受取ってすぐたちさえすれば、翌日の夕方までには着くはすであった。次郎はお祖母さんの言葉でそれを知っていた。しかし彼は、その時刻になっても病室に落ちついていて、お浜のつく時間なんか忘れているかのように見えた。そのくせ、彼の言ったり、したりすることは、とんちかんなことが多かった。彼の頭の中は、もうお浜で一ぱいであった。眼の前にお浜の顔が始終現れたり消えたりした。それはさほど鮮明ではなかったが、かえってそのために、彼はまぼろしの中に吸いこまれるような気持だった。
「次郎ちゃんの乳母やが来たよう。」
 誠吉が跣足で庭をまわって来て、そう言うと、またすぐ走って行った。
 次郎は思わず立ち上りそうにしたが、強いて自分を落ちつけた。
「早く迎えておいでよ。」
 祖母と母とがほとんど同時に言った。次郎はそれですぐ立ち上ったが、さほどせきこんでいるふうには見えなかった。それでも、母屋に行くまでの彼の足が宙に浮いていたことは、彼自身が一番よく知っていた。
 お浜はもう茶の間に坐って、正木の老人とお延を相手に話していた。誠吉やそのほかの従兄弟たちは、土間に立って、珍しそうにその様子を眺めていた。次郎がはいって行くと、お浜は持っていた団扇を畳に置いて、中腰になりながら、
「まあ。」と叫んだ。その叫声には、ほとんど喜びの調子はこもっていなかった。それは異様なものを見た驚きの叫びだった。次郎の火傷のあとのまだらな皮膚の色が、彼女をびっくりさせたのである。
 お延がそれに気がついてすぐ説明し出した。説明をききながらも、お浜は何度も次郎の顔に目を見張った。次郎はお祖父さんのそばに坐って、まぶしそうにその視線をよけていた。
 説明を聞き終ると、お浜は眉根をよせて次郎の方に膝をのり出しながら、
「以前からおいたでしたが、今でも相変らずね。でも、大したことにならないで、ようございましたわ。」
 彼女は、次郎と自分との間に二三尺の距離があるのがもどかしそうであった。次郎は、しかし、お客にでも行ったように行儀よく坐って、固くなっていた。彼のこの時の気持は実に変てこだった。彼の前に坐って物を言っているのは、なるほど三年前に別れた乳母やにはちがいない。しかし、同時に全く別人のような気もする。それはちょうど、着なれた着物を一度しまいこんで、久方ぶりにまた取り出して着る時のような感じである。
 お浜は、たてつづけにいろんなことを彼にたずねた。彼は、しかし、ただ「うん」とか「ううん」とかいう簡単な返事をするだけであった。その簡単な返事ですら、いつものように自然には出なかった。時とすると、はじめて人に対するような、ていねいな返事をしそうになることさえあった。
「お民も待ちかねているようだから、では、ちょいと顔を見せておいてくれ。次郎、お前乳母やを母さんのところへつれておいで。」
 お祖父さんは、ひととおり二人の問答がすんだところで、言った。二人はすぐ立ちあがった。
 病室に行く途中、お浜は次郎の肩《かた》を抱《いだ》くようにして歩いた。
「すいぶんお脊が伸びましたわね。」
 次郎は、急に以前の気持がしみ出て来るような気がした。そして、自分の方から何か口を利いてみたいと思ったが、急にはうまい言葉が見つからなかった。
 病室にはいると、お浜はお祖母さんには挨拶もしないで、いきなり病人の枕元《まくらもと》に坐った。やはり次郎の肩に手をかけたままだったので、次郎も一緒に坐らなければならなかった。彼女は坐ったきりうつむいてしまって一言も言わなかった。次郎は彼女の膝にぽたぽたと涙が落ちるのを見た。
「まあ、よく来てくれたね。」
 お祖母さんの方からそう挨拶されて、お浜は、急いで涙をはらいながら、笑顔を作った。そして、
「ほんとに申訳もないご無沙汰をいたしまして。……ご病気のことなど、ちっとも存じませんものですから。」
 二人の間には、それからしばらくいろいろのことが話された。お民もちょいちょいそれに口を出した。話は大ていお互いのその後のことについてであった。次郎はそれによって、弥作爺さんが死んだこと、お兼がもう奉公に出て、いくらかの金を貢《みつ》ぐこと、お鶴が学校で優等賞を貰ったことなどを知った。次郎は、古い校舎の片隅の校番室の様子を思い出しながら、それをきいた。本田の引越し
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