は、お浜は、あまりにも古い絵になり過ぎている。だが春子はまだ決して絵ではない。彼女のいかなる部分も生きて動いている。眼が笑い、唇がものを言い、髪が揺れ、白い指が薬壜をふっている。しかも、次郎にとっては、喜び以外の何者でもない唯ひとりの「姉」である。かりに彼女とお浜とが、同時に次郎の生活に飛びこんで来て、彼に対する愛情の競争をやるとしたら、多分「姉」は「乳母」に勝をゆずらなければならないであろう。しかし、「姉」が生きた人間で、「乳母」が絵でしかない場合、次郎でなくとも、「姉」を失うことこそ、より大きな不幸と感ずるであろう。
 授業は午《ひる》ですんだ。その間に何度も鐘が鳴って、彼は教室を出たり這入ったりした。しかし彼が学校に居ることをはっきり意識したのは、ほとんど鐘が鳴り出す瞬間だけであった。それほど彼の心は春子のことに集中していたのである。
 集中したといっても、何かを頭の中で工夫していたのではなかった。彼はただ美しい「姉」の姿を追った。それが汽車に乗って遠くに運ばれて行くのを見た。地図で想像する東京の近くまで来ると「姉」の顔も、列車も、一つの点に消えうせた。あとは、何もかもがらんとしていた。それは光でもない、闇でもない、灰色の音のない世界であった。その灰色の世界には、いつの間にか再び「姉」の顔が浮かび出した。そしてまた東京の方に消えた。彼の頭の中には、何度も何度もそれがくりかえされた。教室では先生の指図《さしず》に応じて、本を開いたり、鉛筆を動かしたりはした。しかしそれは全く機械的だった。運動場ではボール投もやり、角力もとった。しかし、彼は何度もボールを取り落し、角力ではすぐ押し出された。
「次郎ちゃんは、今日は真面目にやらないんだから、駄目だい。」
 仲間たちは、何度もそんな不平を言った。次郎は、しかし、力のない微笑をもらすだけだった。
 彼は竜一ともほとんど口をきかなかった。しかし、いよいよ最後の授業が終って教室を出ると、彼はすぐ竜一をつかまえて言った。
「一緒に君んとこへ行ってもいい?」
 竜一はむろん喜んだ。二人はすぐ並んで歩き出したが、校門を出ると、次郎は急に立ちどまって何か考えるようなふうだった。
「どうしたい。早く行こうや。」
 竜一がうながした。すると次郎は、
「君、さきに帰っとれよ。僕すぐ行くから」
 彼は午飯のことを思い出したのだった。午退けのために弁当を持って来ていないのに、竜一の家に行くのが気まずかったのである。
「どうしてだい。」
「どうしてでもいいから、さきに帰っとれよ。」
 彼はそう言って、さっさと門内に這入ってしまった。竜一は不平そうな顔をして、しばらく彼を見ていたが、仕方なしに、他の仲間たちと一緒に帰って行った。
 次郎はしばらく、教員室に最も遠い校舎の角の、日陰になったところに、一人でぽつねんと立っていた。そして掃除当番のがたぴしさせる音が少ししずまったころ、再び校門を出た。
 強い日照の路を、彼はかなりゆっくり歩いた。そして竜一の家についてからも、しばらく内の様子をうかがってから、敷居をまたいだ。敷居をまたぐと、すぐ左側は薬局の窓だったが、中はしいんとしていた。彼はいつものように自分勝手に上りこむ気になれず、いかにも遠慮深そうに、「竜ちゃあん。」と呼んでみた。どこからも返事がない。遠くの方から、食器のふれるような音が、かすかに聞えて来る。彼はもう一度呼んでみる勇気が出なくて、そのまま上り框に腰をおろした。
 彼は少しつかれていた。戸外のぎらぎらした光線が、汗ばんだ彼の顔を褐色に光らせていた。彼は気が遠くなるような、息がはずむような変な気がした。
「あら、次郎ちゃんじゃない? 今日はお薬の日だったの?」
 だしぬけに春子の声がうしろにきこえた。次郎はうろたえて立ち上りながら、
「ううん、竜ちゃんは?」
「竜一? いるわ。たった今学校から帰って、ご飯たべたところなの。次郎ちゃんも学校のお帰り? ご飯まだでしょう?」
「うん、僕たべたくないや。」
「どうかしたの?」
「ううん。」
 次郎は首をふった。春子はちょっと変な顔をして彼を見つめたが、
「じゃ二階に上ってらっしゃい。すぐ竜ちゃんを呼んで来てあげるわ。」
 春子はそう言って奥へ行った。次郎には彼女がいつもよりよそよそしいように思われて仕方がなかった。来なければよかったというような気もした。しかし、そのまま帰るのも工合がわるくて、またぽつねんと立ったまま戸外をながめていた。
 竜一が間もなく走って来た。二人はすぐ二階にあがった。次郎はつとめていつもの通りに振舞おうとしたが、やはり気が落ちつかなくて、二人の遊びはしばしば間がぬけた。春子が二階に上って来たのは、それから三十分も経ってからであった。
 彼女は、父が病家から持って帰ったらしいお菓子
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