ち上りしなに、はじめてちらりとお祖父さんの顔を見た。すると、驚いたことには、お祖父さんは、彼がこれまでにまだ見たことのないような渋い顔をして、彼を見つめていた。次郎の誇らしい気持は、その瞬間にすっかりけし飛んだ。
(生意気なことをする奴だ。)
 お祖父さんの眼が、そう言っているような気がしてならなかった。そして、彼の手に持っている竹の皮包みからは、いやな匂いがぷうんと彼の鼻をついた。
 彼はその後お祖父さんの前に出ると、妙に手も足も出ないような気持がするのであった。

    三五 薬局

 正木に来てからのお民の主治医は竜一の父だった。
 薬は三日に一度貰うことになっていたが、その使いをするのは、いつも次郎の役目だった。それが次郎にとって何よりの楽しみだった。薬局にはたいてい春子がいた。――親孝行の名において、しかも竜一を囮《おとり》に使う面倒もなく、極めて自然に「姉ちゃん」の顔が見られ、声が聞かれる。何という恵まれた機会を次郎は持ったことであろう。
 最初の一回だけは、彼は薬局の窓口から薬壜《くすりびん》と薬袋《くすりぶくろ》とを差出した。すると、美しい眼がすぐ窓口から次郎をのぞいた。そして、
「あら、次郎ちゃんじゃない? こちらにおはいり。」
 次郎は、むろん躊躇しなかった。そして第二回目からは、案内も乞わないで、さっさと薬局の中に這入りこんだ。たまには足音を忍ばせて春子を驚かしたりすることもあった。
 調剤の時には、春子はいつも真っ白な上被《うわぎ》をかけ、うぶ毛のはえた柔かな腕を、あらわに出していた。次郎にはその姿が非常に清らかなもののように思われた。彼は春子が仕事をしている間は、自分からはめったに話しかけなかった。そして、ガラスや金属のふれあうひそかな音に耳をすましながら、一心に彼女の手つきを見つめた。
 春子は、ガラスの目盛をすかして見たりしながら、よく次郎に母の容態《ようたい》をたずねた。そんなときには、次郎はいかにも心配らしく、かなり大ぎょうな調子で、自分の直接知っていることや、祖母たちの話していることを伝えた。そして、春子が眉根をよせたり、眼を見張ったり、「まあ、まあ」と叫んだり、或いは笑顔になったりする表情を、自分自身に対する深い同情のしるしとして受取り、甘い気分になってそれに陶酔《とうすい》するのであった。
 彼が薬局に来ているのを知ると、竜一がすぐ飛んで来て、彼をほかの部屋に誘い出そうとした。次郎は、しかし、それをあまり喜ばなかった。そして、心の中で、自分の来ていることが竜一に知れなければいい、などと思ったりすることがあった。で、学校などで、竜一に、今度はいつ来るかときかれても、あいまいな返事をすることが多かった。
 しかし、竜一の存在は、彼にとっていつも邪魔であるとは限らなかった。ほかに薬を貰いに来ている人がないと、竜一はきまって自分と次郎とのために、春子におやつをねだり、それを二階の子供部屋で一緒に食べるのだった。春子も手があいているかぎり、必ず二人の相手をした。次郎にとってはおやつも嬉しかったが、春子に相手になって貰うことが、それ以上に嬉しかった。もしおやつも春子も一緒であれば、それが最上だったことはいうまでもない。
 しかし、あまり永く次郎が遊んでいるのを、春子は決して許さなかった。薬壜を渡されてから、三十分以上も次郎がぐずぐずしていると、春子はきまって言った。
「お母さんが待っていらっしゃるわ。もう帰らないと。」
 次郎は、そう言われないうちに立ち上りたいとは、いつも思っていた。しかし思っているだけで、それに成功したことは一度だってなかった。彼は最後の十分間ほどを、いつもはらはらしながら過した。そして春子のその言葉を聞くたびにいつも後悔した。しかし、一旦、そう言われると、彼はもうぐずぐずはしなかった。いかにも「うっかりしていた」というような顔つきをして思い切りよく立ち上った。この時の彼の「さようなら」は、決して元気のない声ではなかった。
 次郎は脊は低かったが、同じ年配のどの少年にも負けないほど、足の速い子であった。ことに竜一の家で三十分以上も遊んだ場合には、おどろくほどの速さで帰って行った。一方は櫨|並木《なみき》、一方は芦のしげった大川の土堤を、短距離競走でもやっているかのように走って行く彼の姿を、村人たちはしばしば見るのであった。それは、「お使に行っても決して道草を食わない子だ。」という正木の家でのこのごろの定評を裏切るのは、彼としてあまり好ましいことではなかったからである。
 ところで、こうした定評などにかまっていられない、一つの重大な、彼にとっては恐らく最も不幸だと思われる事件が、彼に近づいて来た。それは春子の身上に関することであった。
 暑中休暇が始まるのもあと二三日という、ある
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