先方から使賃として一銭ずつ貰ったのを貯めておいたものである。彼はこの貯金のことを思い出すと、急に胸がどきどきし出した。そして大急ぎで家に帰ると、珍しく病室にも顔を出さないで、すぐ自分の机の抽斗をあけた。そしてその中の小箱から、音のしないように十銭白銅三枚をつまみ出すと、すぐまたこそこそと家を出て、肉屋のいるところへ走って来た。
肉屋は、ちょうど俎《まないた》と出刃とを目籠の中にしまいこむところだった。子供たちは、まだみんなその周囲に立っていた。そして、次郎が息をはずませながら帰って来たのを見ると、その中の一人が、見物事はもうすんだといったような顔をして言った。
「次郎ちゃん、もっと早く来ればよかったのに。」
次郎は、勢いこんで走って来たものの、妙に気おくれがして、みんなのいる前で、肉屋にもう一度目籠の蓋をあけさせる勇気が出なかった。買いにやられたことにすれば何でもないはすだったが、彼は自分の手に握っている金で、どのぐらいの分量の肉が買えるものか、その見当がまるでつかなかったのである。彼は、友達の顔と肉屋の顔とを等分に見くらべながら、しばらくぐずぐずして立っていた。そのうちに肉屋は、彼に頓着なく、目籠をかついで、正木の家とは反対の方向に歩き出した。同時に、仲間たちもばらばらに散ってしまった。彼らがまた肉屋のあとについて歩くのではないかと心配していた次郎は、それでほっとした。
仲間たちの姿が見えなくはると、彼は急いで肉屋のあとを追った。彼が追いついたのは、どの家からもかなり離れた畑の中の道だった。幸い近くには人影が見えなかった。彼は何度も躊躇《ちゅうちょ》したあとでとうとう思いきって声をかけた。
「肉屋さん、肉まだある?」
「ええ、ありますよ。」
肉屋はふりかえってそう答えたが、目籠をおろしそうなふうには見えなかった。
「少うしでも売る?」
「ええ、いくらでも売りますよ。」
「じゃ、これだけおくれ。」
次郎は思いきって、握っていた手をひろげて突き出した。三枚の白銅がびっしょり汗にぬれて、掌の上に光っていた。
肉屋はけげんそうに次郎の顔を見て、金を受取ったが、すぐ目籠をおろして、幅一寸長さ三寸ぐらいの肉片を俎の上にのせた。
次郎はそれをみんな刻んでくれるのかと思って見ていると、秤にかけられたのはその半分ほどだった。それでも秤《はかり》は錘《おもり》の方がはね上った。すると肉屋はまたそれを俎の上におろして、ほんの少しばかり端っこを切りとった。そしてもう一度秤にかけた、今度は錘の方がやや低目になった。すると、切りとった端っこの肉を、更に半分ほど切りとって秤の肉につぎ足した。それで秤は大たい水平になった。肉屋はその肉を俎において刻み終ると、からからになった脂肪の一片をそれに加え、竹の皮に包んで次郎に渡した。次郎は、牛肉というものについて、ある新知識を得たような気持で、それを受取った。
彼は受取るとすぐ、周囲を見まわしながら、それを懐に押しこんだ。そして恥ずかしいような、誇らしいような変な気分を味わいながら、母の病室に這入って行った。
病室には正木の老夫婦の外に、ついさっきまでいなかったはずの謙蔵がいた。次郎はお祖母さん一人の時の方が工合がいいように思ったが、思いきって竹の皮包みをみんなの前に出した。
「何だえ、それ。」
お祖母さんがたずねた。
「牛肉だよ。」
「牛肉? どうしたんだえ。」
「買って来たのさ。」
「買って来た? どこで?」
「村に売りに来ていたんだよ。」
みんなは変な顔をして、竹の皮包みと次郎の顔とを見くらべた。
「誰かに言いつかったのかい。」
「ううん。」
「お金は?」
「僕持っていたんだい。」
「お前のお小遣い?」
「そう。」
「何で牛肉なんか買って来たんだえ。」
「母さんが、鶏のスープはもう飽いたって言っていたからさ。」
「まあ、お前は……」
お祖母さんは急におろおろした声になって、ぼろぼろと涙をこぼした。お民の眼にも涙が浮いていた。謙蔵は微笑しながら言った。
「そいつは感心だ。で、どれほど買って来た?」
「三十銭だけど、たったこれっぽちさ。」
次郎はそう言って竹の皮を開いて見せた。お祖母さんがそれでまた涙をこぼした。
「いや、今日は牛肉のご馳走が沢山に出来るぞ。叔母さんも、さっき一斤ほど買ったようだから。はっはっはっ。」
謙蔵は、以前のいきさつなどすっかり忘れているかのように朗らかだった。次郎は、しかし、それを聞いてちょっとがっかりした。小さな竹の皮に、薄くぴったりと吸いついている赤黒い肉が、彼の眼にはいかにもみじめだった。
「次郎、ありがとう。じゃ叔母さんに買っていただいたのと一緒にしてお貰い。」
次郎は、母にそう言われて、少しきまり悪そうに、もとどおり竹の皮包みに紐をかけた。そして立
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