、お民の病室になったのは、それから三日の後であった。その三日間を、次郎は、深くものを考えるような、それでいてそわそわと落ちつかないようなふうで暮した。
 お民は見ちがえるほど痩せていた。蒼白い額の皮膚が、冷たく骨にくっついて、その下から眼だけが澄みきって光っていた。次郎が学校から帰って来てはじめて彼女の病室に這入った時には、彼女はしずかに眠っていたが、間もなく眼をさまして彼の顔を見ると、いかにも淋しく微笑した。その微笑が、遠い世界からの不思議な暗示のように次郎の心を捉えた。そして蝋細工のような血の気のない唇の間から、真っ白に浮き出した歯が、生々しく次郎の眼にしみついた。
 病室には、ほとんど正木のお祖母さんがつききりだった。で、次郎には大して用もなかったが、彼は、学校から帰ると、なるだけ病室を遠く離れないように努めた。そして、母の方からよく見える次の間の片隅に机を置いて、おさらいをしながら、お祖母さんが何か用を言いつけるのを待っているようなふうであった。
 彼は、学校の帰りに道草を食ったり、一人で遊びに出たりすることはほとんどしなくなった。遊びに出るにしても、それは大てい従兄弟たちに誘い出される場合に限られていた。そして、そうした場合でも、彼は必ず病室にいるお祖母さんの許しを得てからにするのであった。で、あとでは、従兄弟たちも、次第に彼を特別扱いにするようになり、彼を誘い出すのを遠慮したり、忘れたりすることが多くなった。
 だが、彼のこうした態度には、まだかなりの無理があった。病気の母に対する子として自然の感情からというよりは、この場合そうしなければならぬという義務的な気持の方が強かった。だから、従兄弟たちだけで自由にはしゃぎまわっている声がきこえたりすると、彼は変に落着かなかった。そして病気の母に対して淡い反感をさえ抱くことがあった。しかし、その反感を、少しでも、顔や言葉に表すようなことは決してなかった。
 彼の変化は、むろん誰の目にもついた。そして、それがあまり著《いちじる》しいので、みんなを驚かせもし、涙ぐましい気持にもさせた。
「何といういじらしい子だろう。」
 そう言って正木のお祖母さんは、おりおり袖口で目尻を拭いた。
「次郎のことだけが心残りだったんですけれど、こんなふうだと安心して死ねますわ。」
 お民はよくそんなことを言っては、みんなを泣かした。
 お延は、むろん、誠吉を戒める材料に、しょっちゅう次郎を引合いに出した。謙蔵ですら、子供たちがあまりそうぞうしいと、
「少し次郎ちゃんに見習って、勉強するんだ。」
 とどなることがあった。
 正木のお祖父さんだけは、不思議に何とも言わなかった。言っているのかも知れなかったが、次郎の耳には少しもはいらなかった。次郎にとっては、それはたしかに物足りないことの一つであったが、しかし、そのために彼は決して悲観はしなかった。なぜなら、この家で、お祖父さんは彼の第一の味方であり、その第一の味方が、他の人たち以上に彼を讃《ほ》めていないわけはない、と彼は確信しきっていたからである。
 ところで、そうした讃辞《さんじ》は、次郎にとって大きな悦びであると共に、また強い束縛《そくばく》でもあった。彼はいつも人々の讃辞に耳をそばだてた。そして、一つの讃辞は、やがて次の新しい讃辞を彼に求めさせた。彼は、彼自身の本能や、自然の欲求に生きる代りに、周囲の人々の讃辞に生きようと努めた。それも彼の本能の一つであったといえないことはないかも知れない。しかし、そのために、彼が次第に身動きが出来なくなって来たことはたしかだった。しかも、時としては、彼は、そのために、心にもない善行にまで逐いつめられることさえあったのである。
 ある日彼は、おりおりこの村にやって来る顔馴染の肉屋が、近所の農家の前に目籠《めご》をおろして、肉を刻んでいるのを見た。その時は、ちょうど学校の帰りがけで、村の仲間たちと一緒だった。仲間たちは、肉屋を見ると、すぐそのまわりを取り巻いた。巧みな出刃の動きにつれて、脂気のない赤黒い肉が、俎《まないた》の片隅にぐちゃぐちゃにたまっていくのを、彼らは一心に見入った。空がどんよりと曇って、むし暑い空気の中を、肉の匂いがむせるように漂った。
 次郎も、一緒になって、しばらくそれを見ていたが、ふと彼は、母が毎日飲む肉汁《すうぷ》の事を思い起した。「鶏の肉汁にはもうあきあきした。何か変ったものはないかしら。」……そう言って眉根をよせながら、肉汁を啜《すす》っている母の顔が眼に浮かんで来た。「今度肉屋が来たら、一度牛肉にしてみようかね。」――祖母のそうした言葉も同時に思い出された。
 彼の机の中には五十何銭かの貯金があった。それは学用品代として俊亮に貰ったもののあまりや、近所に牡丹餅を配ったりした場合、
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