、そっぽを向いてしまった。
俊亮は、しばらくその様子を見まもっていたが、急におさえつけるような口調で、
「次郎、そんなことじゃ、お前にはまだ母さんの看病は出来ない。お祖父さんがせっかくああおっしゃって下さるが、やっぱり父さんと町に帰ることにしたらどうだ。」
次郎は驚いて父を見た。それから正木老人を見た。しかし、二人共恐ろしく真面目な顔をして、彼を見つめているだけだった。彼はますますうろたえて、祖母とお延を見た。しかし、この二人もにこりともしないで口を結んでいる。
こんなことは、次郎にとって全くはじめてであった。これまで彼が困った場合、彼を救ってくれるのは、いつも俊亮であり、正木の老夫婦であった。お延にしても、謙蔵に対する気兼から、際立《きわだ》って彼に味方をすることはなかったが、心の中では彼の肩を持ってくれている一人に相違なかった。それが今日は申し合せたように、冷たい眼をして彼を見守っている。
(これはただごとではない。)
彼はそんな気がした、しかし、どうしていいのか、さっぱりわからなかった。どんな場合にも、抜け道を見出すことにかけては本能的である彼も、自分の味方だと思っている人達に、こうおし默って見つめられていたのでは、手も足も出なかったのである。
彼は生まれてはじめて、本当の行詰りを経験した。箱の中に入れられて、押詰められるような感じである。たまらなくくやしい。しかも、そのくやしさの奥から、わけのわからぬ恐怖が入道雲のように押し寄せて来る。反抗も出来ない。皮肉な態度には無論なれない。かといって、この場を逃げ出すきっかけも見つからない。彼は泣くより外に道がなかった。
涙というものは、よかれあしかれ、大抵のことを結末に導いてくれるものである。次郎の涙は全くわけのわからぬ涙であったとしても、四人の心を動かすには十分であった。ことにこの場合は、次郎の涙は彼らによって待たれていたものだとも言えるのであった。
「泣くことなんか、ありゃしない。」
お祖母さんが先ず口を切った。
お祖父さんが、すぐそのあとについて、慰めるとも叱るともつかぬ口調で言った。
「ここにいたければ、いてもいい。じゃが、もっと素直な心になって貰わんと、みんなが困る。父さんもそれを心配していられるんじゃ。」
それを聞くと、次郎の頭には、すぐ謙蔵の顔が閃めいた。彼だけがこの席をはずしているわけも、どうやらわかるような気がした。しかし、それならそれで、はっきりそう言ってくれてもよさそうに思えた。何で父は、母の看病のことなんかで、あんな意地悪を言ったんだろう。そう思うと、やはりわけがわからない。次郎は、しくしく泣きながらも、頭の中は、かなり忙しく仂かせていた。
「お祖父さんのおっしゃる通りだ。」と、今度は俊亮が言った。
「もうお前も六年生だ。少しは道理もわかるだろう。少しのことにすねたりして、お祖父さんやお祖母さんに、いつまでも心配をかけるんじゃない。それに第一、――」と、少し間をおいて、
「伯父さんや叔母さんのご苦労は、これからなみ大抵じゃないんだ。何しろ病人を世話して下さるんだからね。この上、お前に変にひねくれた真似なんかされたんでは、この父さんが全く申訳がない。母さんだって落ちついて養生が出来ないだろう。お前は、母さんの看病ぐらい何でもないように言っているが、本当の看病はね、病人に気をもませないことなんだ。ことに母さんの病気は気分が何より大切だからね、もしこちらにいたけりゃ、第一、皆さんの言いつけを素直にきくこと、それに勉強、それから学校がひけたら、さっさと帰って来て、さっきお前が言ったように、母さんのお世話をすることだ。いいか。次郎。」
次郎はこれまで、こんなに立てつづけに、しかも厳しい口調で、父に教訓された経験がなかった。彼は、父特有ののんきな調子を、どこにも見出すことが出来なかったばかりか、かえって言葉のはしばしに、何かしら深い苦しみがにじみ出ているようにさえ感じた。
彼はやはり泣きつづけていた。しかし、もう彼の涙は、決してわけのわからぬ涙ではなかった。彼は父の立場を考えた。彼自身の立場を考えた。そして、何かしら非常に重たいものが、彼の五体にのしかかって来るような感じがした。
彼はむせびながら言った。
「父さん、悪かったよ。僕……僕……」
彼のこの謝罪には、少しの偽りもなかった。かといって、それは純粋な感情の表示でもなかった。この言葉の奥には、感情と共に理性と意志とが仂いていた。彼はもう一個の自然児ではなかった。複雑な人生に生きて行く技術を意識的に仂かそうとする人間への一転機が、この時はっきりと彼の心にきざしていた。それほど、彼は、彼自身と周囲との関係をおもおもしく頭の中に描いていたのである。
三四 牛肉
正木の家の離室が
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