ったって、何だい。久ちゃんだって、源ちゃんだって、みんな落書きしてらあ。」
誠吉は、それはそうだ、と思った。しかしそう思っただけで、心はやはり落着かなかった。
「あやまらないと、僕母さんにも叱られるんだよ。」
「だって、叔母さん、まだ知らないだろう。」
「もう知ってるかも知れないよ。」
「叔母さんにも、言いつけるだろうか、あいつ。」
誠吉は、次郎の「あいつ」と言ったのに、眼を見張った。次郎は、しかし、平気で言いつづけた。
「僕、あいつ、きらいだい。いつも叔母さんにばかり誠ちゃんを叱らすんだもの。」
二人は、しばらく默りこんだ。次郎はやがて、何かふと思いついたように、
「誠ちゃんは、あいつを、いつも父さんって言うんだろう?」
「…………」
誠吉は、いよいよ変な顔をして、次郎を見た。彼は、正木で生まれ正木で育ったので、従兄弟たちと一緒に、少しの無理もなく、謙蔵を父さんと呼びならわして来ている。彼が実の父でないことを、はっきり知っている現在でも、それだけは、彼にとって、ちっとも不自然には感じられないのである。
「父さんでもない人を、父さんなんていう馬鹿があるもんか。」
次郎は、平気でそんなことを言った。彼はそれがいかに毒のある言葉であるかを、まだよく知らなかったのである。誠吉は、しかし、何となく恐ろしくなった。
彼は心配そうに訊ねた。
「じゃ、何て言うの?」
「何とも言わなくったっていいや。僕だってもうこれからは伯父さんなんて言わないことにすらあ。だから、誠ちゃんも、父さんって言うの、よせよ。」
「だって、用がある時、どうする?」
「用なんかあるもんか、用があったら、僕、お祖父さんに言わあ。誠ちゃんも、お祖父さんに言えよ。」
「僕はお祖母さんが一等いいんだがなあ。」
「そんなら、お祖母さんでもいいさ。僕はお祖父さんにするから、誠ちゃんはお祖母さんにしろよ。」
「でも、母さんは、何でも父さんにきかないと、いけないって言うよ。」
「馬鹿にしてらあ。お祖父さんが一番の大将だよ。あいつなんか、他所《よそ》から来たんだい。」
次郎はそう言って、得意らしく顔をあげた。すると、驚いたことには、すぐ鼻先の土蔵の窓から、人の顔がのぞいていた。
それは、ちらっと見えてすぐ消えたが、謙蔵の顔らしかった。次郎は急にそわそわし出した。彼は、何か言おうとする誠吉を、手で制しておいて、土蔵の窓に注意を払いながら、及び腰になって、路地の入口まで忍んで行った。
土蔵の戸口には、果して謙蔵が、大福帳をぶらさげて石のように突っ立っていた。次郎ははっとして後じさりしようとした。しかし、もうその時には、異様な輝きをもった謙蔵の眼が、青ざめた額の下から、ぐっと次郎を睨んで放さなかった。
次郎はすぐ地べたに眼を落した。しかし彼は、自分の右の頬に、いりつくような謙蔵の視線をいつまでも感じていた。
あたりはしいんとしていた。路地の奥では、誠吉が、次郎が何をしてるかを心配しながら待っていた。
やがて、土蔵の戸口から足音がして、次郎の首垂《うなだ》れている顔の前をゆっくり通りぬけた。その足音は、一つ一つ、次郎の鼓膜《こまく》を栗のいがのように刺戟した。
次郎が、やっと自分を取りもどして、誠吉のところに帰って行ったのは、それから二三分も経ってからであった。彼は、誠吉に何をきかれてもはっきりした返事をしなかった。彼は何とかごまかしながら、そのまま誠吉を誘って、村の中を、あちらこちらと日暮ごろまで遊びまわった。
その後、この事件がどんな結果になったかは、謙蔵と次郎だけが知っていた。謙蔵は誰にも次郎の不届きなことを話さなかった。次郎もまたあくまで沈默を守った。誠吉は、次郎との会話を謙蔵に聞かれたとは思っていなかったし、また次郎の言ったことが、人に知られてはならないことのように思われたので、やはり口をつぐんで母にも言わなかった。
謙蔵と次郎の視線は、それっきりめったに出っくわすことがなかった。万一出っくわしても、次郎の視線は、謙蔵の剣のような視線によってすぐ弾《はじ》きとばされた。弾きとばされたのは、彼の視線ばかりではなかった。次郎は謙蔵の眼をさけるために、いつも自分の体の置きどころを考えなければならなかった。――以前からも、彼は謙蔵を避けるふうがあったが、その当時とは意味がまるでちがって来たのである。――彼はなるべく学校のかえりをおくらす工夫をした。出来るだけ魚釣に出た。近所の農家が忙しくて遊び相手がないと、進んでその手伝いもやった。しかし日暮になって家の近くまで帰って来ると、彼の胸には、いつも鉛のような重いものが、のしかかって来るのだった。
彼は、謙蔵を伯父さんとは決して呼ばなくなった。しかしそれは、そう呼ぶのがいやだったからというよりは、呼びたくても、もうそ
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