取りあいもしなかったが、悪戯《いたずら》の性質上、それが一番年下の誠吉の罪でないと見ると、彼は自分の長男の久男や、二男の源次を呼んで、ひどく叱った。お延は、そうなると、ますますうろたえて、自分は自分で、誠吉にうんと叱言を言うのだった。
 次郎が正木に預けられる少し前、お延は、亡くなった姉のあとに直って、謙蔵と結婚することになったが、そうなると、彼女はいよいよ、人前で誠吉に叱言を言ったり、差別待遇をしたりすることが多くなった。そして、おりおり彼を陰に呼んでは、母らしい情愛をもって彼を抱擁し、同時に、その幼い頭に、義理ある父に対する従順の徳を説き、義兄弟たちに対して、すべてを譲るように、因果をふくめるのだった。
 村人たちにとっては、腹をいためた子以上に義理ある子を愛するということは、まさに驚異に値する婦徳の一つであった。
「お延さんは、さすがに正木の娘さんだ。」
 そうした賞讃の声が、あちらでも、こちらでも聞かれた。それはお延自身の耳にも謙蔵の耳にも、正木老夫婦の耳にもはいった。お延はいよいよ自分を引きしめた。謙蔵は自分の妻をほめられて悪い気持はしなかった。そして、誠吉を愛するのは自分の役目かな、と考えてみたりした。彼はしかし相変らず、どの子供に対しても、自分から進んで気を使おうとはしなかった。正木老夫婦は、安心とも心配ともつかぬ気分で、謙吉とお延と孫たちを眺めていた。
 次郎の耳には、世間の噂など、そう多くははいらなかったかも知れぬ。しかし、彼は、こうしたことには誰よりも敏感であった。以前から、誠吉の立場が、他の従兄弟たちといくらかちがっていることには、ぼんやり感づいていたが、今度来てみて、しばらく一緒にくらしているうちに、はっきりそれがわかって来た。そして誠吉が、食事のときなど、ちょっとのび上ってみんなの皿を見まわしたり、なんでもないことをするのにも人目を避けたり、必要もないのに自分から言訳をしようとしたりする気持が、次郎にはよく呑みこめた。
 次郎は、最初、以前自分が母に対して抱いていたと同じような感じを、お延に対して抱きはじめた。しかし、時が経つにつれて、自分の場合と誠吉の場合とは、かなり様子がちがっていることに気がついて来た。そして、誠吉本人がいつも警戒しているのは、お延でなくて謙蔵であることが、次第にわかって来ると、彼は、お延と誠吉と自分とで、内密に攻守同盟でも結んでいるかのような気になってしまった。
 誠吉は気の弱い子で、次郎の遊び相手としてはすこぶる物足りなかった。しかし、次郎は、いかなる場合にも誠吉の味方になることを忘れなかった。学校の往きかえりはもとより、戦争ごっこや、鬼ごっこや、隠れんぼなどで、誠吉が不利な立場に立っていると、何とかして彼を助けてやろうとした。また時としては、正木老夫婦や、謙蔵や、お延の前で、こまちゃくれた口の利きかたをして、誠吉の過失を弁護したりすることもあった。そんな場合、お延は迷惑そうな顔をして、次郎の出しゃばりをたしなめ、一層きつく誠吉を叱るのだった。次郎は、しかし、それはお延の本心ではなく、内心ではかえって自分に感謝しているのだと、一人ぎめに、きめてしまっていたのである。
 次郎のこまちゃくれたおせっかいも、この程度でとまって居れば、大したことにはならなくてすんだのであるが、あるはずみから、とうとう彼は、取りかえしのつかない失敗を演じてしまったのである。
 ある日次郎が、みんなより少しおくれて、学校から帰って来ると、土蔵と母屋との路地に、誠吉がしょんぼりとたたずんで泣いていた。わけを訊ねてみると、土蔵の白壁に鉛筆で落書きをしているところを謙蔵に見つかって、叱られたというのである。恐らくそれは、謙蔵が通りがかりに一寸注意した程度のものだろうと思われるが、かりそめにも、謙蔵に直接叱言をくったということは、誠吉にとって気味のわるいことだったに相違ない。次郎もむろん無関心では居れなかった。彼は、彼の頭に映っている謙蔵と、目の前にしょんぼり立って泣いている誠吉とを結びつけて考えながら、一種の義憤《ぎふん》にかられて来た。しかし、自分が全然知りもしないことを、いつもの通り誠吉のために弁解するのも変だ。また、かりに弁解するとしても、どう弁解すればいいのか、誰のところに持っていけばいいのか。これまでは叱り手が必すお延だったので、言い出しやすかったが、謙蔵に直接では、すこし勝手がわるい。――次郎はそんなことを考えているうちに、ますます謙蔵が悪い人のように思われて来た。
「次郎ちゃん、あやまっておくれよ。」
 誠吉は、口に指をくわえながら言った。次郎は、しかし、誠吉の弱々しい言葉をきくと、一層力みかえった。
「何だい? あやまることなんか、あるもんか。」
「だって、僕、見つかったんだもの。」
「見つか
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