はなかったが、思わぬ敵や、災《わざわ》いが、どこにひそんでいるかわからぬ、といったような感じが、そんなことから、いつとはなしに、彼の胸に芽生えはじめていたのである。
 彼は、学校で、綴方はいつも甲をもらった。先生に教室でそれを読み上げて貰ったりすることも稀ではなかった。しかし、彼の綴方は、勇ましい活動的な方面を書いたものよりも、むしろ、そうした沈んだ感傷的なものの方が多かった。
 こうして、彼の正木の家における新生活は、一見すらすらと流れているようで、かなりこみ入った内容を持ちはじめていたのである。

    三二 土蔵の窓

 正木の家での次郎の自由な生活に、ごくかすかではあったが、暗い影を投げている人が一人だけあった。それは先年亡くなった伯母の夫に当る人で、名を謙蔵といった。次郎はこの人にだけは、最初から何とはなしに気が置けていたのである。
 正木の老人には、末っ子に男の子が一人あった。しかし、彼には学問で身を立てさせることにしていたので、総領娘――お民の姉――に早くから謙蔵を迎えて、蝋屋の仕事一切を任せて来たのだった。ところが、その男の子は、東京に遊学中病気になり、若くて死んでしまったので、謙蔵が、自然、この家を相続することになったわけなのである。
 謙蔵は、村内のさる中農の次男だったが、性来実直で、勤勉で、しかもどこかに才幹があるというので、正木の老人の眼鏡に叶《かな》ったのだった。尤も、彼は小学校きり出てなかったので、その点では、この家の相続人として不似合であり、彼自身でも、人知れずそれにひけ目を感じていたらしかった。しかし、櫨の実の買つけから、蝋の売捌《うりさば》きにいたるまでの商売上の駈引《かけひき》、その他、日々の一家の経営にかけては、人にうしろ指をさされたことがなく、それに、すでにその頃には、子供が二人も出来ていたので、正木の相続人としての彼の資格に、もうどこからも文句の出ようはずはなかった。
 正木の老人に対する彼の態度は、ほとんど絶対服従と言ってもいいくらいであった。また老人の方でも、命令ずくで彼に対するようなことは決してなく、むしろ、ちょっとしたことにも、なるべく彼を立てていく、といったふうがあった。今度次郎を預るについても、むろん二人の間には、いつの間にか相談が出来ており、謙蔵の方に、次郎をいやがるような気持など、少しもなかったのである。
 次郎は、しかし、謙蔵の前に出ると、何となく気づまりだった。食事の時など、彼が近くにいるのといないのとでは、坐り方からいくぶんちがっていた。謙蔵は、元来無口で、めったに笑顔を見せない性質だったが、次郎にとっては、それが自分に対する時だけのように思われてならなかった。で、彼は、なるべく謙蔵に近づかない工夫をした。謙蔵の方では、別にそれを気にもとめず、かといって、進んで次郎を手なずけようとする努力も払わなかった。こんなふうで、二人の間には、いつまで経っても、伯父甥らしい親しみが生まれて来なかったのである。
 謙蔵に対して、ちょうど次郎と同じ気持でこの家に寝起きしている子供が、もう一人いた。それは、お延という次郎の叔母――お民の妹――の一人子で、次郎より一つ年下の誠吉だった。
 お延は、ある官吏の妻になっていたが、誠吉がまだお腹にいたころ、夫に死別れて、正木に戻り、ここで誠吉を生んだのだった。男の子が生れれば先方の籍に入れる、ということになっていたが、いよいよ生まれてみると、だい一お延が手放したがらないし、それに、先方でも喜んで引取るような様子がなかったので、正木の老人は、いろいろと考えた末、謙蔵夫婦に相談して、表面その実子にして籍に入れて貰うことにしたのである。
 謙蔵夫婦は、別に誠吉を愛しもせず、さればといって憎みもしなかった。一たいに二人共、自分たちの実子に対しても、こまかな心づかいなどしない方で、いつも商売や家庭の切盛《きりもり》にかまけている方だった。だから、あたりまえなら、誠吉は、他の子供たちにくらべて、そう不幸なはずもなく、謙蔵に対して変な気など起す理由は少しもなかったのである。
 罪はむしろ母のお延にあった、彼女は、必要以上に自分の境遇にひけ目を感じていた。その結果、自分だけが遠慮深く振舞うだけでなく、誠吉にもそれを強いた。謙藏の目の届くところでは、ことにそれが甚しかった。台所の方のことは、大ていお延に任されていたが、彼女は誠吉を偏愛するとみんなに思われたくないところから、わざわざ誠吉の食物を他の子供たちよりも悪くしたり、何かの都合で、肴などが人数に足りないと、誠吉だけに我慢させたりした。また、誠吉が従兄弟たちと一緒に何かいたずらでもすると、叱られるのは、いつも誠吉だけだった。しかも彼は、しばしば謙蔵の前で謝罪を強いられるのだった。謙蔵は、そんな場合、深く
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