、こうした声が、一座の中から聞えて来ようものなら、次郎はいよいよ嬉しくなって、あくまでも頑張りつづけようとするのであった。
 ただ、次郎にとっての困難は、灰汁入れの瞬間だった。この大事な瞬間になると、さすがに彼の細腕では、どうにもならなかった。で、彼は、その時になると、いつも隣の誰かに擂古木を廻して貰うことにした。しかし、それは決して彼の恥辱にはならなかった。と、いうのは、ごく年上の婆さんたちや、若い娘たちの中にも、次郎と同じように、灰汁入れの時に人手を借りる者が、必す何人かは居たからである。
 次郎の野外における楽しみも、屋内のそれに劣らず、変化に富んでいた。彼は、男衆に教わって、天竺《てんじく》針をかけることや、どうけ[#「どうけ」に傍点]を沈めることを知った。日暮にかけておいた天竺針には、朝になるときっと鰻《うなぎ》や鯰《なまず》がかかっている。どうけ[#「どうけ」に傍点]というのは、舌のついた目のあらい竹籠の底の部分に、焼糠《やきぬか》をまぜた泥をぬり、それを、この附近によくある溜池の浅いところに沈めておいて、鮒や鯉を捕るのであるが、これも日暮に沈めておくと、朝には大てい獲物がはいっている。次郎は、その季節になると、よく夕飯におくれたり、まだ暗いうちから起き上って、戸をがたぴしいわせたりして、みんなに叱言を食うのであった。大川が近いので、男衆はちょっとした際を見ては投網《とあみ》に行って、鱸《すずき》などをとって来るのだったが、そんな場合、次郎が一緒でないことは、ごく稀であった。
 大川の土堤を一里あまり下ると、もう海である。ちょうど、同じくらいの距離を上手《かみて》に行くと、旧藩暗代の名高い土木家が植えたという杉並木がある。次郎は、そのどちらも好きであった。彼は、別に面白いことが見つからないと、仲間を誘っては、よくそのどちらかに出かけて行った。海では、干潟で貝を捕り、杉並木では木登りや、石投げをやった。
 いつの間にか、彼は小船を漕ぐことを覚えた。また近所の農家で馬にも乗せてもらった。従兄弟たちと一緒に、この村の祭りに加わって、若衆組の下仂きもさせてもらった。本田の家では許されなかったようなことが、ここではほとんど自由であった。こうして、次から次へと新しい楽しみが殖《ふ》えて来た。その間に、農家の生活がどんなものだかも、次第にわかって来て、ちょっとした手伝いぐらいは、彼にも出来るようになったのである。
 しかし、次郎の新しい生活は、単にこうした方面ばかりではなかった。竜一とは毎日学校で顔を合わせるにもかかわらず、わざわざ葉書を書いて、自分が正木に来ていることを報じたりした。それが春子への通信を意味したことは、言うまでもない。また、恭一の仲よしであった真智子のお伽噺《とぎばなし》の本が一冊、どうしたはずみか、次郎の机の中にまぎれこんで正木に届けられていたのを、これも、学校では返さないで、わざわざ郵便で送り返した。これは真智子の返事をもらいたかったからであったことは、その後しばらく、日に一回の郵便配達があるのを、非常に注意して待っていたのでもわかる。むろん彼に、恋心というようなものが、すでに湧いていたわけではない。彼が郵便を愛したことは、お鶴からの年賀状を大切にしまいこんでいたことでもわかるし、また父や兄に、おりおり手紙をかいて、その返事が来ると、従兄弟たちの前で、声たかだかと読みあげたりするのでもわかる。しかし、春子や真智子からの郵便を待つ心に、ある特別の感情が伴なっていたことも、やはり否めない事実であった。
 彼はまた、一心に水を見つめたり、雲をながめたり、風の音や鳥の声に耳をかたむけたりすることもあった。ある日など、大川の土堤の斜面にねころんで、赤い蟹《かに》が芦《あし》の茎を上ったり下ったりするのを、一時間あまりも一人で眺めていて、自分でも不思議に思ったことがある。しかし、あとで考えると、そんな時には、大てい、校番室を思い出し、お浜や、弥作爺さんや、お鶴や、お兼や、勘作や、それからそれへと、正木の家に来るまでのことを、一巡思い起していたことに気づくのである。
 彼は、以前の悪癖がなおらないで、このごろでもしばしば生きものを殺した。しかし、殺したあとでは、いつも変に気味わるい感じになるのであった。そんな時に、彼がよく思い出すのは村はずれの団栗《どんぐり》林だった。そこには小さな祠《ほこら》が祭られていたが、その祠の真うしろの、一番大きい団栗の幹に、大釘が五本ほど打ちこんであるのを、かつて彼は見たことがあった。村の人達の話では、誰かが人を呪って、その両眼と両耳と口とを利かなくしようとしたものだ、ということだった。なるほど、そう聞くと、釘の位置が、ちょうどそんなふうになっていた。次郎には、運命というようなものを考える力
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