したものが流れていて、それがそろそろと彼の心にせまって来るのだった。彼女は、時として、絵本や、美しい箱入の学用品などを買って、町はずれまで、彼の帰りを見送ってくれることがあったが、そんな時には、彼は、お浜に逢っているような感じにさえなるのだった。
恭一や俊三に対する彼の気持は、別れる前から、いくらかずつよくなって来てはいたが、この頃、たまに逢うせいか、二人共、自然次郎本位に遊んでくれるので、そのたびごとに、親しみをまして来た。以前、彼が二人に対して抱いていた反抗心などは、もうこのごろでは全くなくなってしまった、三人一緒に町を歩いたりするのが、本田を訪ねる彼の楽しみの一つになって来たのである。
だが、本田の家に対して彼が感ずる最も大きな魅力は、何といっても俊亮であった。俊亮は格別彼をちやほやするのでもなく、どうかすると、公園につれて行ってやる約束をしておきながら急用が出来たと言っては、彼をすっぽかしたりするようなこともあった。しかし、そんな時に、次郎は、淡い失望を感じこそすれ、欺かれたという気持になることなどは、一度だってなかった。彼は父に、「ほう、来たな。」と、ごくあっさり言葉をかけられたり、忙しい合間にも、ちょいちょい顔を覗かれたりするだけで、父の気持を十分に知ることが出来た。そして、もし自分に出来ることなら、恭一や俊三との遊びをやめても、父の仕事の手伝いをしてみたい、という気にさえなるのであった。で、町の魅力と、母や兄弟に対する親和の情とが、かなり強いものになっていたとしても、もし彼に、父に逢えるという大きな楽しみがなかったとしたら、彼はわざわざ四里もの道を、陰気臭い家までやって来て、祖母の顔を見る気には、まだなかなかなれなかったであろう。
正木の家では、彼はほとんどあらゆる場合に自由であった。そこでは次郎の神経を刺戟するような、冷たい、とげとげした言葉など、全く聞かれなかった。むろん、祖父や祖母が、次郎に全然叱言を言わないわけではなかった。しかし、その叱言は、少しも彼の苦にならない叱言だった。それに、だい一、この家の生活には、いろいろの変化があった。櫨《はぜ》の実を俵に入れて沢山積んである大きな土蔵の中で、かくれんぼをしていると、山奥で洞穴の探検でもやっているような気分が味わえた。また、広い土間に払げられた[#「払げられた」はママ]櫨の実を、から竿で打ち落したり、蒸炉《むしろ》の焚口《たきぐち》に櫨滓《はぜかす》を放りこんだり、蝋油の固まったのを鉢からおこしたり、干場一面の真っ白な蝋粉に杉葉で打水をしたりする男衆や女衆にまじって、覚束《おぼつか》ない手伝いをするのも、誇らしい喜びだった。ことに「灰汁《あく》入れ」作業の手伝いは、次郎が学校を休んでもやりたいと思う仕事の一つだった。
この作業の日には、附近の農家から、手のあいた女たちが凡そ二十人近くも手伝いに来た。その中には、婆さんも居れば、若い娘も居た。それらの人たちに、家内《うち》の婢《おんな》たちや、子供たちも交えて、三十数名のものが、土間に蓆をしいてずらりと二列に並ぶ。めいめいの前には、擂鉢型《すりばちがた》の浅い灰色の鉢に、一本の擂古木をそえたのが一つずつ置いてある。やがて、蝋油を溶かした黄褐色の液体が、一定の分量ずつ、男衆によって鉢に注がれる。注がれた人は、すぐ擂古木をとって、それを掻きまわさなければならない。掻きまわしているうちに、はじめさらさらした蝋油が、次第にさめて、白ちゃけたどろどろの液になって来る。適当の時期を見はからって、男衆はそれに一柄杓の灰汁《あく》を注ぎこむ。この時、まぜ手は油断してはならない。精一ぱいの速度で擂古木をまわさなければならないのである。灰汁が注がれると、鉢の中の蝋油は、忽ちのうちに真っ白に変り、同時に、擂古木が少々の力ではまわせないほど、ねばっこくなって来る。すると男衆は、すばやくその鉢を抱えて、予め水を打ってある他の鉢に、その中身をうつす。蝋はそこで徐々に固まっていって、鉋《かんな》をかけられ、干場に出されるのを待つのである。
こうした作業が、毎日夜明けから日暮まで、二三日もつづけて繰りかえされる。その間には、婆さんたちの口から、腹をよらせるような面白い話も出れば、娘たちの喉から、美しい歌も流れる。食事以外には定まった休憩の時間はないが、一鉢あげるごとに、随意に渋茶も飲めるし、また薩摩芋《さつまいも》や時には牡丹餅《ぼたもち》などの御馳走も、勝手にいただけるのである。
次郎もそうした中にまじって擂古木を廻すのであったが、それがちょうど日曜日ででもあると、彼は終日厭きもしないで坐り通すのであった。
「本田の坊ちゃんは、何て辛抱強いんでしょう。」
「全く珍しいお子さんだよ。」
「坊ちゃん、ちっと遊んでおいでよ。」
もし
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