郎が、
「父さんは、どっちがいい?」
 俊亮は、予期しなかった問に、ちょっとまごついた。そして、しばらく次郎の眼を見つめていたが、
「父さんか。父さんはどうでもいい。次郎の好きなようにするのが一番いいと思っているんだ。」
 次郎は、首をかしげて、右手の指先で、縁板をこすりはじめた。十秒あまりの沈默がつづいた。蚊が一疋、弱々しい声を立てて、次郎の耳元で鳴いた。次郎は、手をふってそれを追ったが、すぐまたその手で、縁板をこすりはじめた。
「次郎や――」と、その時、本田のお祖母さんが、少し膝を乗り出して、声をかけた。
「私も、お母さんと同じ考えなんだよ。そりゃあ、もう、こちら様のご親切は、よくわかっていますが、何といっても、兄弟三人そろっていて貰う方が、私も気が安まるのでね。一人残して置いたんでは、夜もおちおち眠れまいと思うのだよ。」
 みんなの次郎を見ていた眼が、気まずそうに畳の上に落ちた。次郎は、じろりと本田のお祖母さんを見たが、すぐその眼で俊亮を見あげながら、きっぱりと言った。
「父さん、僕、ここに残るよ。」
 誰も、しばらくは、一語も発しなかった。俊亮も、少しあきれたように、次郎の顔を見ていたが急にわれにかえって、
「そうか。うむ。それでいい。それでいいんだ。……なあに、町までは、たった四里しかないんだから、わけはない。土曜から泊りに行くんだな。」
 正木のお祖父さんは、その場の気まずい空気をふり払うように、つと立って縁に出た。
「おお、いい月じゃ、お茶でも入れかえて貰おうかな。」
 正木のお祖母さんは、顔を畳にすりつけるようにして、座敷から空をのぞいていたが、
「そうそう。今夜は、ちょうど十五夜でございましたよ。」
「あら。すると次郎の誕生日ですわ。あたし、かまけていてすっかり忘れていましたの。」
 と、お民がいそいそと立ち上って、月を見た。すると、本田のお祖母さんが、
「私、気づかないでもなかったんだがね。こちら様で、そんなことを言い出すものでもないと思って。」
 それでまた、あたりが変に気まずくなった。次郎は、しかし、もうその時にはそこにはいなかった。彼は、彼が物ごころづいて以来、しばしば聞かされてきた、「八月十五夜」が、ちょうど今夜だということなど、まるで思いつきもしないで、遠慮深そうにしている恭一や俊三を尻目にかけながら、わが物顔に庭をあちらこちらと飛びまわっていた。

    三一 新生活

 翌日は本田の一家が出発する日だったにも拘《かかわ》らず、次郎は、平気で学校に行った。みんなも、いっそその方がよかろうというので、強いて休ませようともしなかった。帰って来てみんなの姿が見えなかったら、きっと淋しがるだろうと、正木では気をつかっていたが、別にそんなふうにも見えなかった。
 それ以来、彼の日々は割合平和に過ぎた。気持がのびのびとなるにつれて、喧嘩をしたりすることも、割合に少なくなった。
 土曜から日曜にかけて、正木のお祖父さんや、、お祖母さんにつれられて、おりおり本田の家にも訪ねて行った。しかし、彼が帰りをしぶるようなこととは一度だってなかった。ただ、町の賑やかさは、彼にとって新しい刺戟だった。――町は、人口三四万の、古い城下町だったのである。
 俊亮夫婦は、この町の、割合賑やかな通りに、店を一軒借りて酒類の販売を始めていた。店は間口も相当に広く、菰《こも》かぶりや、いろいろの美しいレッテルを貼《は》った瓶などを、沢山ならべてあって、次郎の眼には眩《まば》ゆいように感じられたが、奥は、以前の家とは比べものにならない、狭い、汚ならしい部屋ばかりだった。恭一と俊三とが机を並べている部屋は、ちょうど店の二階になっていた。そこは物置同様で、鉄格子の小窓がたった一つあいているきりだった。庭もあるにはあった。しかし、それは、隣家の苔だらけの土蔵で囲まれた、ほんの五六坪ほどのもので、そこからは、湿っぽい土の匂いが、たえず室内に流れて来た。次郎は、その匂いをかぐと、すぐ滅入りそうな気になるのだった。ことに、昼間でも真っ暗な、狭くるしい便所に行かなければならないのが、何よりもいやだった。正木の家でなら、もっと明るい、ゆとりのある便所がいくつもあったし、それに小用ぐらいなら、自由に野天で放つことも出来たのである。
 このような陰気な家の中で、顔を合わせる本田のお祖母さんが、次郎にとって、いよいよ不愉快な存在になって来たことは、言うまでもない。家が手狭なだけにお祖母さんの言うこと、することが、始終彼の頭を刺戟した。一緒に食卓につくと、どんな好きなものでも、気持よく腹に納まらないような気がするのだった。
 母の方は、しかし、訪ねるたびに、次第にやさしくなっていくように感じられた。気のせいかうす暗い部屋の中で見る母の顔に、何かしら、しっとり
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