うは呼べなかったからであった。謙蔵に何か言わなければならない用を、老夫婦やお延に言いつかると、彼はいつもそれを、巧みに誠吉や他の従兄弟たちに譲った。そして、彼らが――誠吉もまた――謙蔵を「父さん」と呼んで、こだわりなく用をすましているのを陰で聞きながら、自分一人が、彼らにまで、のけ者にされているような感じになるのだった。
かように、正木の家の明るい空気の中で、謙蔵の胸には次郎が、次郎の胸には謙蔵が、いつも黒いかたまりになって、こびりついていた。だが、それはあくまで二人きりの問題であった。老夫婦も、お延も、しばらくは、まるでそんなことには気がついていないらしかった。誠吉ですらも、自分以上に次郎が謙蔵を窮屈がっているとは、ちっとも考えていなかった。
こうして正木の家も、次郎にとって、完全に幸福な家ではなくなってしまったのである。
三三 看病
そのうちに、一年半の歳月が流れて、次郎もいよいよ六年生になった。
学校では、上級学校入学志望の子供たちに対して、学年始から、特別の課業が始められた。次郎も、その教室に出入りする一人だった。彼は、雲雀《ひばり》の囀《さえず》る麦畑の間を歩きながら、竜一たちと、ほのかな希望を語りあったりするのであった。
次郎と謙蔵との間の黒い影は、その後、時がたつにつれて、いくらかずつぼかされていった。そして、ごく稀にではあったが、次郎の唇からも、「伯父さん」という言葉が洩れるほどになった。しかし、何もなかった以前の気持にかえることは、むろん望めないことだった。それに、永い間には、二人の間の感情が、老夫婦や、お延の眼に映らないでいるはずがなかった。で、黒い影は、ぼかされていく一方、そろそろと家じゅうの人たちの胸に薄墨のようにしみていくのであった。
しかし、誰の心にも、次郎がこの家にいるのも、もうあと一年だ、という考えがあった。そして、謙蔵は舅《しゅうと》や姑《しゅうとめ》に対する義理合から、お延は姉のお民に対する思わくから、老夫婦は、次郎本人に対する愛と俊亮に対する面目から、それぞれあと一年を我慢することにした。もっとも、老夫婦はただ我慢するというだけでなく、これからの一年間にいくらかでも次郎の性質を、矯《た》め直して、謙蔵にもよく思われ、俊亮夫婦にも喜んで貰いたいという気持で一ぱいであった。
次郎は、そうした間にあって、いよいよませ[#「ませ」に傍点]て来た。
そして、世間というものがいくらかずつわかり出すと、もう自分の家と親類の家とをはっきり区別して、自分が現在どんな位置に居るかを考えずにはいられなくなって来た。
(自分はこの家で生まれた人間ではない。誠吉なら威張ってこの家の飯を食って居れるが、自分はそういうわけにはいかないのだ。)
こんなことに気がつき出した彼は、変に何事にも用心深くなった。そしてこれまで謙蔵に対してだけ感じていた窮屈さを、この家のすべての人に対して感じるようになり、祖父や祖母に対してすら何かと気兼《きがね》をするようになった。また、雇人たちが彼に向かって軽口をたたいたり、ちょっと手伝いを頼んだりすると、何だか侮辱されたような気がして、以前のように気軽にそれに受答えすることが出来なくなってしまった。
それに、何よりも、彼に変に思われ出したのは、このごろのお祖父さんやお祖母さんの素振《そぶり》に、何か彼にかくし立てをしているようなところが見えることであった。二人共、最近しげしげと本田を訪ねるのに、いつも次郎には知らさないで出て行ってしまった。帰って来ても、本田の話をするのを、なるだけ避けようとするふうがあった。
「町になんか行くひまに、うんと勉強して、お前も来年は中学生になることじゃ。」
これが、彼を町につれて行かなかった場合の、お祖父さんのいつもの口癖であった。するとお祖母さんも、すぐそのあとについて、
「恭一は優等で二年になったそうだよ。」
と、きまり文句のように言うのであった。
次郎は、そんなふうに言われると、いよいよ疑ぐり深くなった。彼は、本田と正木との間に、自分のことについて、何かこそこそと相談しあっているのではないかと疑ったりした、こうして彼の幼いころからの孤独感は、ますます色が濃くなっていくのであった。
そろそろ夏が近づいて来た。ある日、彼が学校から帰って来て、子供部屋になっている二階に上ろうとすると、座敷の方から、思いがけない俊亮の声が聞えて来た。彼は、はっとして梯子段を上りやめて、そっと声のする方をのぞいてみた。すると、そこには、老夫婦に、謙蔵、お延、俊亮の五人が真面目くさった顔をして坐っていた。彼らは、次郎が梯子段《はしごだん》を上る音で話をやめ、一せいにこちらを見たらしかったが、誰の顔も石像のように固かった。ひさびさで逢った俊亮です
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