それは次郎の顔を見たいためではなかった。彼女がやって来るのは、いつも次郎が学校に出たあとだったし、たまたま顔をあわせることがあっても、
「おとなしくするんだよ。」と、通り一遍の、冷やかな注意を与えるぐらいで、大ていは、正木の老夫婦と、ひそひそと相談ごとをすますと、すぐ大急ぎで帰って行くのだった。
次郎は、しかし、別にそれを気にもとめなかった。この家の賑やかな空気が、もう十分に、彼の心を幸福にしてしまっていたのである。
だが、ある日、本田の一家が、打ちそろって正木を訪ねて来た時には、彼もさすがにはっとした。もう夕飯に近い時刻だったが、彼らが門口を這入ると、急に家じゅうが忙しそうになった。台所からは、黒塗のお膳が、いくつもいくつも座敷に運ばれた。座敷の次の間には、長方形のちゃぶ台が二つ続きに据えられて、そこにもいろいろの御馳走が並べられた。次郎は、それが何を意味するかを、すぐ悟った。
大人たちは座敷で、子供たちは次の間で、正木と本田の両家が打ちそろって、食事をはじめたのは、夕暮近いころであった。座敷の方は、正木のお祖父さんと、俊亮の二人が、何のこだわりもなさそうに高話《たかばなし》をするだけで、ほかの人たちは、いやに沈んだ顔をしていた。次の間は、これに反して、おそろしく賑やかだった。ただ、次郎だけは、いつも座敷の方の様子に気をとられていた。彼は、食うだけのものは、誰にも劣らず食ったが、みんなと一緒になってはしゃぐ気には、どうしてもなれなかった。
食事がすんで、お膳が下げられると、大人も子供も座敷に集まって、菱の実をかじった。尤も俊亮の前だけには、正木のお祖母さんの気づきで、小さなお盆に、燗《かん》徳利と、盃と、塩からのはいった小皿とが残して置かれた。しかし、俊亮は、一二度お祖母さんにお酌をして貰ったきり、ほとんど盃を手にしなかった。次郎は、何度も自分でついでやりたいと思ったが、きまりが悪くてとうとう手を出さなかった。
二升ほどもあった菱の実は、三四十分もたつと、うず高い殻の山になっていた。
「もう菱も、そろそろ出なくなります頃ね。」
お民は、淋しそうに、菱の殻に眼をやりながら、言った。
「これだけでも採《と》らせるのは、やっとだったよ。……でも、恭一や俊三が、これからはめったに食べられないだろうと思ってね。」と、正木のお祖母さんも、何だか心細そうであった。
すると俊亮が笑いながら、
「なあに、菱なら町の方がかえって多いくらいでしょう。毎晩、近在の娘たちが、何十人と売りに出るんですから。」
「ほう、それは……」と、正木のお祖父さんが、俊亮を見て何か言おうとした。
すると、本田のお祖母さんが、
「俊亮、お前何をお言いだね。せっかくこちらのお祖母さんが、ああして気をつかっていて下さるのに。」
「いや、こいつは大しくじり。わっはっはっ。」
俊亮はわざとらしく笑いながら頭をかいた。しかし誰も笑わなかった。みんな妙に顔をゆがめて、本田のお祖母さんから、眼をそらした。
子供たちは、菱の実がなくなると、すぐ縁側に出て腕角力《うでずもう》やじゃんけん[#「じゃんけん」に傍点]をはじめていたが、次郎は、その方に心をひかれながらも、大人たちの席から、遠く離れようとはしなかった。彼は、畳と縁との間の敷居に尻を落ちつけて、庭の方に向きながら、耳の神経を絶えずうしろの方に使っていた。
庭の隅に一本の榎《えのき》の大木があった。その枝の間を、まんまるい月がそろそろと昇りはじめた。初秋の風が、しのびやかに葉末をわたるごとに、露がこぼれ落ちそうだった。次郎はいつとはなしに、それにも眼をひかれていた。彼の心は子供たちの騒ぎと、うしろの話し声と、美しい月の光との間にはさまれて、しょんぼりと淋しかった。
話は、いつの間にか、ひそひそした声になっていた。それが、ややもすると、子供たちの騒ぎにまぎれそうであったが、次郎の耳の神経は、そうなると、かえって鋭く仂いた。話は彼自身に関することであった。
お民――「一人だけ、わけへだてをされたように思って、ひがんでも困りますので、やはり一緒につれて行く方が、いいのではないかと思いますの。」
正木の祖父――「ふむ……」
正木の祖母――「それは、何といってもね。……でも、本人さえこちらにいる気になれば、その心配もなかりそうに思うのだがね。」
正木の祖父――「本人は大丈夫じゃ。元来あれは、ここが好きなのじゃからな。」
本田の祖母――「まあ、さようでございましょうか。それにしましても、今度の場合は、本人にとくときいてみませんと、……」
本田のお祖母さんの声だけが、わざとのように高い。
正木の祖父――「それは、わしの方で、もうきいておきました。」
本田の祖母――「やはり、こちら様にご厄介になりたいと、そうはっきり申す
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