も知れない。)
 次郎が、父に対してこんなふうな考え方をするのは、これが初めてであった。これまでにも、父が酒を飲むのを、多少うるさいとは思っていたが、その善悪などを、本気で考えてみたことは全くなかった。むしろ、父のすることなら、何でもいいことのように思えて、母に叱られながらも父のそばにくっついて、よくお酌をしたりしたものである。で、彼は、考えてはならないことを考えたような気がして、何となく父にすまなく思った。しかし、一度|萌《きざ》した考えは容易に消えなかった。父を大事に思えば思うほど、いよいよそのことが気になって来た。
「次郎は何になるつもりじゃ。」
 正木のお祖父さんが、ふと、そんなことを訊ねた。
 次郎はお祖父さんも、自分と同じように、父のことを考えているような気でいたのに、ふいにそう訊ねられたので、変な気がした。それに彼は、さきざき何になるなどということを、これまで一度だって考えたことがなかった。彼の友達の中には、よく大将になるとか、大臣になるとか言って、得意になっている者もあったが、彼としては、そんなことを考えるよりも、彼に親切な人が誰だかを知ることの方が、よほど大切だったのである。
「返事をせんところをみると、まだ何も考えていないのじゃな。」
 老人は非難するように言った。
「お祖父さんは、小さい時に、何になろうと考えたの?」
「うむ……」
 老人は逆襲《ぎゃくしゅう》されてちょっと返事に困ったふうであったが、
「お祖父さんの子供の頃は、親のあとを継《つ》ぐ気でいればよかったのじゃ。」
「今はいけないの?」
「いけないこともないが……」
 と、また老人は返事に困った。
「僕の父さんは役人でしょう。」
「うむ……」
 老人はますます窮した。
「僕、役人になってもいいんだが、父さんは、すぐ役人をよすんじゃありません?」
「父さんがよしたら、お前もよすかの?」
「僕、父さんと、なるたけ一緒の方がいいや。」
「ふむ。」
 正木の老人は、闇をすかしてそっと次郎を見おろしたが、そのまま默って歩を運んだ。
「お祖父さん。――」と、次郎は急に改まった調子で、
「ねえ、お祖父さん、父さんは心が真っ直なんでしょう?」
 老人は、次郎が何を言い出すのかと思って、ちょっと思案した。が、すぐ、
「そりゃ真っ直じゃとも、どうしてそんなことをきくかの。」
「父さん酒飲むの、悪かありません?」
「うむ、……そりゃ、酒はのんでも、心が真っ直ならいいだろう。」
 次郎は満足しなかった。しかし、それ以上、強いて訊ねてみたい気もしなかった。そして暫くは、二人の足音だけが、闇に響いた。
「次郎――」
 正木の老人は、村の入口に来たころに、やっと再び口をひらいた。
「世の中で一番偉い人はな、お前の父さんのように、どんな人でも可愛がってやれる人じゃ。父さんが、今日、いろんなものを売ったのも、困っている人たちを、これまでに沢山助けたため、金が足りなくなって来たからじゃ。お前、父さんのように偉い人になれるかの。嫌いな人が沢山あったりしては駄目じゃが。」
 次郎の頭には、すぐ祖母と母との顔が浮かんで来た。そして老人の言葉を、自分に対する訓戒と考える前に、父と彼ら二人とを心の中で比べていた。
「母さんも、お祖母さんも、だから偉くないや。」
 次郎は吐き出すように言った。
「そうか。……では次郎はどうじゃ?」
「僕も偉くないや。」
 次郎の答は、老人の予期に反して、極めて率直だった。
「偉くなりたくないかの?」
「なりたいけれど、僕……」
「駄目かな。」
「だって、僕……乳母やと一緒だといいんだがなあ。きっと偉くなれるんだけれど……。」
 老人はぴたりと歩みをとめた。そして次郎の両手を握って、彼を自分の方に引きよせながら、闇をすかして、その顔を覗きこんだ。
「お前は、まだ乳母やのことが忘れられないのか。」
 老人の声はふるえていた。次郎は叱られていると思って、握られた手を、無理に引っこめようとした。
「叱っているんじゃない。乳母やに逢いたけりゃ、このお祖父さんが今に逢わしてやる。だから、きっと偉くなるんじゃぞ。」
 次郎はしゃくり上げそうになるのを、じっとこらえてうなずいた。
 二人が、正木の家の門口に近づいたころ、北方の空を二つに割って、斜に大きな星が流れた。
「あっ。」
 次郎は、声をあげてそれを仰いだが、その光が空に吸いこまれると、彼の眼は、いつの間にか北極星を凝視《ぎょうし》していた。
 しかし、彼が「永遠」と「運命」と「愛」とを、はっきり結びつけて考えうるまでには、彼は、まだこれから、いろいろの経験をなめなければならないであろう。

    三〇 十五夜

 次郎が正木の家に預けられてから、十四五日の間は、ほとんど一日おきぐらいに、お民が訪ねて来た。もっとも、
前へ 次へ
全83ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング