のに、自分だけが、なぜ乳母やの家かち本田の家へ、本田の家から正木の家へと、移って歩かねばならないのだろう。一たい、何処が自分の本当の家なのだ。)
(父さんはこれから、何処へ行くのだろう、そして何をするのだろう。乳母やとは、あれっきり、一度も逢ったことがないが、父さんにもこれっきり、逢えなくなるのではなかろうか。)
そうした疑問が、次から次へと、彼の頭の中を往来した。むろん、永遠とか、運命とかいうようなことを、はっきりと意識する力は、まだ少年次郎にはなかった。ただ、彼には、ふだんとちがった、厳粛な淋しさがあった。そして、星の光と草履の音との交錯《こうさく》する中を、默りこくって老人のあとについて歩いた。
「眠たいかの。」
「…………」
「こける[#「こける」に傍点]といけない。手をつないでやろう。」
次郎の手を握った老人の掌は、しなびていた。しかし、その皮膚の底から、柔かに伝わって来るあたたか味にふれると、彼はしみじみとした喜びを感じた。そして、急に明るい気分になって訊ねた。
「僕、お祖父さんとこに、いつまでいるの?」
「いつまででもいい。」
「いつまででも?」
そう言った次郎の心には、再び不安と喜びとがもつれあっていた。
「早く帰りたいかの。」
「ううん。」
次郎は首を横に振った。しかし、思い切って振れないものが、何か胸の底に沈んでいた。
「帰りたくなったら、いつでも帰っていい。だが…」
と、老人はしばらく考えてから、
「お前の家には、誰もいなくなるかも知れない。」
この言葉は次郎の胸におもおもしく響いた。動かぬ星と草履の音とが、ひえびえと彼の心を支配した。彼は泣きたくなった。
「しかし、心配することはない。人間というものは、心が大切じゃ。心さえ真っ直にして居れば、家なんかどうにでもなる。」
次郎には、その意味がよく呑み込めなかった。そして彼の前には、再び父の淋しい顔があらわれた。
(お祖父さんは、父さんの心が真っ直でない、と言うのだろうか。いや、そんなわけはない。父さんほど真っ直な人はないはずだ。これまでだって、僕が悪くない時に、僕を叱ったことなんか一度だってないんだから。)
が、次郎は、その時、ふと、父が非常に酒好きなことを思い出した。
父は一人で飲むだけでなく、よくいろんな人を呼んで来ては、相手をさせるのだったが、ある晩の如きは、近在のごろつき[#「ごろつき」に傍点]仲間と言われた五六人の若い者を呼んで来て、次郎にお酌をさせながら、晩くまで飲んだ。何でも喧嘩の仲直りらしかったが、次第に酒がまわるにつれて、ほんの一寸した言葉のゆきちがいから、また喧嘩になってしまった。最初に啖呵《たんか》を切り出したのは眉の濃い、眼玉のどんよりした、獅子っ鼻の大男だった。彼は子供のころ、饅頭《まんじゅう》の売子をしていたため、「饅頭虎」と綽名《あだな》されていた。彼が食ってかかった相手は、「指無しの権《ごん》」だった。小指を一本切り落されていたので、そういう綽名がついていたが、青い顔の、見るからに辛辣《しんらつ》そうな、痩ぎすの男だった。
「旦那をおいて、貴様のその言い草は何てこった。」
といったようなことから始まって、口論は次第に烈しくなった。饅頭虎が、咄々《とうとつ》と嗄《しゃが》れ声で物を言うのに対して、指無しの権は、ねっちりした、しかし、突き刺すような皮肉な言葉をつかった。父は、はじめのうちは、默って二人の口論を聴いていた。しかし、それが次第に険悪になって、今にも立ち廻りが始まりそうになると、急にいずまいを正して、
「虎! ……権!」とつづけざまに大喝《だいかつ》した。そして、いきなり両肌をぬいで、
「それほど喧嘩がしたけりゃ、斬り合うなり、突き合なり、勝手にするがいい。だが、おれも一旦仲にはいったからには、おれの眼玉の黒いうちは困る。先ずおれの方を片づけてからにして貰おうかな。」
そう言って、父は自分の胸を拳でぽんと叩いた。二人は父にそうどなられると、すぐべたりと坐って、平身低頭した。
次郎は、父のすぐ横に坐って、その光景を見ていたが、一面恐怖を感ずると共に、父の英雄的な態度に対して身ぶるいするような感激を覚えた。そして、彼自身が仲間と喧嘩をする場合の、すばしこい、思い切った遣口《やりくち》が、こうしたことに影響されていなかったとは、決していえなかったのである。
*
だが、正木の老人と手をつないで、静かな星空の下を、今こうして歩いていると、そんな思い出が、何となくつまらないことのように思えてならなかった。
(父さんは、あんなことを真面目な気持でやったのだろうか。第一、あんな人たちと酒を飲んだりするのは、いいことだろうか。もしかすると、あんなことのために、家がだんだん貧乏になってしまったのか
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