だち》でもしているかのような口調《くちょう》だった。
「皆さんにご心配をかけます。」と、老人は丁寧に頭を下げた。それから、しばらく何か思案《しあん》していたが、急に俊亮を見て、
「ふいと思いついたことじゃが、次郎をしばらくわしの方に預からして貰えませんかな。」
 みんながてんでに顔を見合わせた。次郎は先ず母を見た。次に父を見た。それから祖母をちらっと横目で見て、視線《しせん》を正木のお祖父さんに移した。
「次郎、どうじゃ、当分わしの方から学校に通うては。」
「……………」
 次郎は返事をする代りに、再び父の顔を見た。
「いや、よく解りました。どうかお願いします。」
 と、俊亮は、ちらっと次郎を見ながら言った。みんなは変におし默っていた。
 もう随分|晩《おそ》かったが、正木の老人は、その晩のうちに次郎を連れて帰ることにした。次郎は、何のために自分が正木の家に預けられるのか解らなかった。しかし、彼は、それを決して不愉快には思わなかった。むしろ、何もかも忘れて、いそいそと出て行った。ただ真っ暗な路を、村はずれまで歩いて来た時に、彼は、ふと、竜一と春子とのことを思い出して、急に泣きたいような淋しさを覚えた。
 その後、彼の足の下で、ぴたぴたと鳴る草履の音が、いやに耳につき出して、彼の気持はいつまでも落ちつかなかった。

    二九 北極星

「星がきれいだのう。」
 正木の老人は、ゆったりと歩を運びながら、独言《ひとりごと》のように言った。秋近い空はすみずみまで晴れて、凪《な》ぎ切った夜の海のように拡がった稲田の中に、道がしろじろと乾《かわ》いていた。
 次郎は空を見上げただけで、返事をしなかった。彼は、正木のお祖父さんに十分な懐しみを感じ、二人きりで夜道を歩くのを誇《ほこ》らしいとさえ思いながらも、ふだん正木の家に行く時のように、朗らかにはなれなかった。彼は、まだ、老人の気持を計りかねていたのである。
(なぜだしぬけに、僕を預るなんて言い出したんだろう。)
 この疑問は、一足ごとに深まっていった。竜一や春子に遠ざかる淋しさが、それにからみついた。そして家の没落ということが、次第にはっきりした意味を持って、彼の胸にせまって来るのだった。
 彼の眼のまえには、売立の光景がまざまざと浮かんで来た。散らかった品物の間から、いろんな表情をした人たちの顔が現れて来る。そして、時おり、微笑を含んだ父の顔が糸の切れた風船玉のように、彼の鼻先に近づいて来る。彼は、父の微笑の中に、ついさっきまで気づかなかった、ある淋しい影を見出した。そして、彼の気持は、いよいよ滅入るばかりだった。
「次郎、あれが北極星じゃ。」
 正木の老人は、ふいに道の曲り角で立ち止まって、遠い空を指さした。
 次郎は、指さされた方に眼をやったが、どれが北極星だが、すこしも見当がつかなかった。彼の眼には、まだ父の顔がぼんやりと残っていて、その顔の中に、星がまばらに光っていた。
「学校で教わらなかったかの?」
「ううん。」
「ほうら、あそこに、柄杓《ひしゃく》の恰好《かっこう》に並んだ星が、七つ見えるだろう。わかるな。あれを北斗七星というのじゃ。」
 次郎は、やっと自分にかえって、老人の説明をききながら、一つ一つ指さされた星を探していった。そして最後に、やっとのこと、北極星を見出すことが出来たが、その光が案外弱いものだったので、彼は何だかつまらなく感じた。
「海では、あの星が方角の目じるしになるのじゃ。あれだけは、いつも動かないからの。」
 老人はそう言って歩き出した。次郎はこれまで星が動くとか、動かないとかいうことについて、全く考えたこともなかったので、老人の言うことを、ちょっと珍しく思った。
「外の星はみんな動いています?」
「ああ、大てい動いている。あの七つの星も、北極星のまわりを、いつもぐるぐる廻っているのじゃ。一時間もたつと、それがよくわかる。」
 いつまでも動かない星、――それが、ふと、ある力をもって、次郎の心を支配しはじめた。彼は歩きながら、ちょいちょい空を仰いで、北極星を見失うまいとつとめた。そして、これまでに経験したことのない、ある深い感じにうたれた。「永遠」というものが、ほのかに彼の心に芽を出しかけたのである。
 彼は、本田のお祖父さんの臨終のおりに、ちょっとそれに似た感じを抱いたことを、記憶している。しかし、それはほんの瞬間で、しかもその時の感じは、お祖母さんのいきさつのために、ひどく濁《にご》らされていた。今夜の感じには、それとは比べものにならない、澄みきった厳粛さがあった。
 しかし一方では、彼の草履の音が、ぴたぴたと音を立てて、たえす、彼の耳に、彼自身の運命を囁いているかのようであった。
(恭ちゃんや俊ちゃんは、何があっても、平気で家に落ちついていられる
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