んやとはしゃいだ。次郎はそのあいだにも、春子が早くやって来ればいいのに、と思っていた。
空が螺鈿《らでん》を鏤《ちりば》めたようになったころ、やっと春子がやって来た。次郎は、彼女が縁台に腰をかけた時、ほのかに化粧の匂いが闇を伝って来るのを感じた。
「蚊がつくわ。」
そう言って、彼女は、持っていた団扇で二人を煽《あお》いだ。次郎は、臥《ね》ていては悪いような気がして、斜めに体を起した。
「次郎ちゃん、帰りたくなったら、誰か送って行ってあげるわ。」
次郎は、春子が、来るとすぐそんなことを言い出したので、がっかりした。しかし、帰りたくないとは言いかねて、默って縁台を下りた。
「それとも、泊って行く? お母さんに叱られやしない?」
「僕帰るよ。」
次郎はそう答えるより外なかった。
「じゃ、誰かに送らせるわ。」
春子は、次郎の予期に反して、あっさりとしていた。
「一人でいいんだい。」
「いけないわ、由ちゃんの仲間が、まだそこいらに見張っているかも知れないのよ。あの子はしつっこいから。」
「僕、負けはしないよ。」
「勝ったって、負けたって、喧嘩する人、大嫌いだわ。」
「大嫌い」という言葉が、次郎の頭に強く響いた。しかし、送って貰って、由夫に卑怯だと思われるのもいやだった。
「次郎ちゃん、泊っていけよ。」
竜一が起きあがって言った。次郎は春子の顔を窺《うかが》いながら、默って立っていた。
「でも、お母さんに叱られやしない。」
春子は念を押した。
「叱られはしないけど。……」
次郎は竜一がもっと何とか言ってくれるのを期待しながら、あいまいな返事をした。
ちょうどその時だった。二、三間先の庭の生籬《いけがき》が、だしぬけにざわざわと音を立てて揺《ゆ》れだした。誰か外の方から揺すぶったらしい。
三人は一|斉《せい》にその方に眼をやった。
「だあれ?」
春子が声をかけた。しかし、それっきりしんとして物音がしない。
「犬かしら。」
彼女は立ち上って、二三歩生籬に近づきながら呟いた。
「人間だよ。」
生籬の外からおどけたような子供の声が聞えた。つづいて四五人の子供が、わざとらしく高笑いした。
そのあと、急に生籬の外がそうぞうしくなった。
「里っ子、ちびっ子、よういよい。ちびっ子、じろっ子、よういよい。」
この辺の盆踊りの節をまねて、そう唄いながら、子供たちは生籬の外で足拍子を踏んだ。
「まあ憎らしい。……次郎ちゃん、我慢するのよ。」
春子は、生籬の方を向いたまま、右手をうしろの方で振って、次郎をなだめるような恰好をした。が、もうその時には、次郎は縁台の近くにはいなかった。彼は裸のまま、いつの間にか門の方へ廻って、子供たちの群に襲《おそ》いかかっていたのである。
生籬の外では、忽ち大乱闘《だいらんとう》が始まった。
「わあっ。」
という子供の悲鳴。捧切のふれ合う音。折り重なった黒い人影。
「誰か早く来て!」
春子は金切声をあげた。
竜一の家の人たちが飛び出して、みんなを取鎮《とりしず》めた時には、次郎は四五人の子供たちによってさんざんに棒切れで撲られているところだった。しかし、不思議にも、悲鳴をあげていたのは彼ではなかった。彼は自分の体の下に、しっかりと一人の子供をおさえつけて、その頬ぺたを、両手でがむしゃらに掴《つか》んでいたのである。一人の子供というのは、いうまでもなく由夫であった。由夫の顔は、次郎の爪で、さんざんに引っかかれていた。
しかし次郎の傷は一層ひどかった。彼の裸の体は、方々紫色に腫れ上っていた。ことに後頭部にはかなり大きな裂傷《れっしょう》があって、血が背中や胸にいくすじも流れていた。彼が明るい電燈の下に、歯を食いしばった姿を表した時には、春子をはじめ、みんなが顔色を真っ青にしたほどだった。
傷は竜一の父に二針ほど縫って貰った。春子は繃帯《ほうたい》をかけてやりながら、半ば独言《ひとりごと》のように言った。
「私、お母さんにすまないわ。傷が治るまで次郎ちゃんをお預りしようかしら。」
次郎はそれを聞くと、眼を輝やかした。しかし、まだ繃帯を結び終らぬうちに、廊下にあわただしい足音がして、母のお民が診察室に顔を現した。そして次郎は間もなくつれて行かれた。
二五 姉ちゃん
次郎の頭に巻かれた繃帯は、学校じゅうの注目の焦《しょう》点になった。誰もそれを彼の敗北のしるしだと思う者はなかった。このごろ少し落目になっていた彼の勇名は、そのため完全に復活した。上級の子供たちまでが、学校の往き帰りに、彼に媚《こ》びるようなふうがあった。由夫とその仲間たちは、いつもびくびくして彼を避けることに苦心した。
次郎は、しかし、みんなのそうした様子には、まるで無頓着《むとんちゃく》なような顔をしていた。彼は
前へ
次へ
全83ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング