っとも見えなかった。
 次郎は、こんなふうに姉に叱られている竜一が、羨《うらや》ましかった。
「ぶつよ、おやつ持ってこなきゃあ。」
 竜一は、絵本をぐるぐると巻いて、振り上げた。
「姉ちゃんをぶったりしたら、次郎ちゃんに笑われるわよ。……さあ、お部屋をもっときれいになさい。そしたら、おやつ上げるわ。」
 春子はそう言って、自分で散らかったものを片づけはじめた。
 次郎は、すぐにもそれを手伝いたかった。しかし何だかきまりが悪くて、半ば腰を上げたまま、竜一の顔ばかり見ていた。
「次郎ちゃんはいい子ね。手伝って下さるでしょう?」
 春子にそう言われると、次郎は、もうぐずぐずしては居れなくなった。彼はいそいそと、玩具やら、春子が重ねてくれた絵本やらを、棚に運んだ。部屋ば間もなくきれいに片づいた。
「ありがと、次郎ちゃん。では、いいものをあげましょうね、お坐り。」
 春子は、半巾《ハンカチ》で口のまわりの汗を拭き拭き、部屋の真ん中にぺったり坐った。
「なあに、姉ちゃん。」と、それまで仏頂面をして突っ立っていた竜一が、春子にしなだれかかって、その白い頸に手をかけた。
「まあ、暑いわよ。いやね。竜ちゃんは。お手伝いもしないで。」
 春子は、口では意地悪く叱りながら、すぐ袂に手を突っこんで、小さな紙の袋を出した。袋には、飴玉が十ばかりはいっていた。三人は、一つずつそれを口にほうりこんで、しばらく默りこんだ。
 窓先の青桐に日がかげって、家の中がいやに静かである。次郎は、まもなく帰らなければならない、と思うと、急に物淋しい気分になった。
「次郎ちゃんは、今日、由ちゃんとどうかしたんじゃない?」
 ふいに春子が真面目な顔をして、二人の顔を見くらべた。
「ううん、何でもないさ。」
 と、竜一が飴玉を口の中でころがしながら答えた。次郎は默っていた。
「でも、さっきから少し変なのよ。」
「どうして?」
「竹ちゃんや、鉄ちゃんが、何度も裏口から覗いて、次郎ちゃんはまだいるかってきくの。何でも、由ちゃんが次郎ちゃんの帰りを待ってて、いじめるんだってさ。」
「由ちゃんなんか、何だい。僕、あべこべにいじめてやるよ。」
 次郎は急に立ち上った。飴玉は、まだ彼の口の中で半分ほども溶けていなかったが、彼はそれをがりがりと噛み砕いた。
「およしよ。由ちゃんはずるいから、お友達を何人もかたらっているらしいのよ。」
「卑怯だなあ。僕、負けるもんか。」
「そうだい。次郎ちゃんは強いんだい。僕、見に行ってやらあ。」
 竜一までが立ち上った。
「およしったら、喧嘩なんかつまらないわ。……次郎ちゃん、ゆっくりしておいで。竜ちゃんと一緒に、夕飯をご馳走してあげるわ。」
 次郎はまだこの家で飯を招《よ》ばれたことがなかった。子供にとって他人の家の食卓というものは、大きな魅力をもっているものだが、とりわけ次郎にとっては、そうであった。彼のいきり立った気分が、春子にそう言われて、急に柔《やわ》らぎかけた。しかし、すぐ坐りこむのも何だか恥ずかしかったので、彼は立ったままもじもじしていた。
「ね、いいでしょう、お母さんにおねがいしとくわ。」
「次郎ちゃん、ご飯たべていけよ。由ちゃんをなぐるのは、明日でもいいや。」
 竜一も、友達を自分の家の食卓に迎える楽しさに胸を躍らせながら、次郎の手を引っぱった。
「明日になれば、由ちゃんだって、もう喧嘩なんかしたくなくなるわ。だから、今日は外に出ないことよ。なんなら、泊っていってもいいわ。」
 次郎は由夫のことなんか、もうどうでもいいような気になって、すっかり落ちついてしまった。
 夕飯は、茶の間の涼しい広縁《ひろえん》で、大勢と一緒だった。漆塗《うるしぬり》の餉台《ちゃぶだい》が馬鹿に広くて、鏡のように光っているのが、先ず次郎の眼についた。金縁の眼鏡をかけた竜一の父が、ちょうど彼の真うしろに、一人だけ膳についていたが、次郎は、たえず背中をみつめられているような気がして、窮屈だった。しかし、春子が何かと気を配って彼の世話を焼いてくれるのが、たまらなく嬉しかった。彼は、正木の家でのように、自由にたらふく食うことは出来なかったが、何かしら、これまでに知らなかった食卓の潤《うるお》いというものを、子供心に感ずることが出来た。
 夕食を終えると、竜一と次郎とは、裸になって、庭に出してある縁台の上で、腕押しをはじめた。腕押しでは、竜一は次郎の敵ではなかった。次郎は一度くらい負けてやってもいいと思ったが、竜一の方がすぐやめてしまった。竜一は別に残念そうでもなかった。そして、
「一番星見つけた。」
 と、だしぬけに、西の空を指して叫んだ。そこには金星が鮮かに光っていた。
 それから二人は、縁台に仰向けに寝転んで、じっと大空に見入った。そして新しい星を見つけるたびに、や
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