ろだったが、今日は不思議に何とも感じなかった。そして、相変らず默って、お祖父さんの顔ばかり見つめていた。お祖母さんも、それっきり、念仏を唱えるだけで何とも言わなかった。
すると今度は俊亮が、
「次郎お菓子が食べたけりゃ、あそこに沢山ある。」
と、違棚の方に眼をやりながら言った。そこには見舞の菓子折がいくつも重ねてあった。
「もう口をあけたのが無いんだよ。……今度新しいのをあけたら、恭ちゃんや俊ちゃんと一緒にあげるから、我慢おし。」
お祖母さんが、はたから、ずるそうな眼をして次郎を見ながら言った。
次郎は急に不愉快になった。さっき「賢い」と言われたのまでが、皮肉に感じられて仕方がなかった。で、父に気を兼ねながらも、ぷいと部屋を出てしまった。
彼は、すぐその足で、二階にかけ上って、冷たい畳の上に寝ころんだ。
畳の上には、柿の枯葉が一枚舞いこんでいた。彼は祖母に対して、彼がこれまで感じていたのとは、ちがった反感を覚え出した。それは、今までのような乱暴をしただけでは治まりのつきそうもない、いやに陰欝《いんうつ》な反感だった。そうした反感の原因が、祖母の言葉にあったのか、それを言った時と場所とが悪かったためなのか、それとも、彼の気持がこのごろ沈んでいたせいなのか、それは誰にも判断が出来ない。とにかく、彼は、今までにない、いやな気分になって、永いこと天井を見つめていた。
部屋はいつの間にかうす暗くなって来た。
お祖父さんの顔がはっきり浮かんで来る。ちっとも恐くはない。つづいてお祖母さんの顔が見える。彼は思わず拳《こぶし》を握って、はね起きそうな姿勢《しせい》になったが、すぐまたぐったりとなった。
しばらくすると、久しく思い出さなかったお浜たちの顔が、つぎつぎに浮かんで来る。不思議なことには、お浜や、弥作爺さんや、お鶴の顔よりも、眉の太い勘作や、やぶにらみのお兼などのきらいな顔の方が、はっきり思い出される。それでも彼は、遠い以前の校番室の夜の団欒《だんらん》を回想して、いくぶん心が落着いて来た。
が、それもほんの暫くだった。足にさわる畳の冷えが、また彼を現実の世界に引きもどした。彼は自分が現在何処にいるかをはっきり意識すると、淋しさと腹立たしさとのために、じっとしてはいられなくなって、ごろごろと畳の上にころがり始めた。
(僕は本当にこの家の子だろうか。)
ふと、そんな疑問が湧いて来た。すると、無性にお浜がなつかしくなって、涙がとめどなく流れた。すっかり暗くなった頃、俊亮が手燭《てしょく》をともして二階に上って来た。彼はしばらく立ったまま次郎の様子を見ていたが、
「次郎、そんな真似はよせ。風邪を引くぞ。……ほら、いいものを持って来た。一人で好きなだけ食べたらさっさと降りて来るんだぞ。」
手燭《てしょく》を畳の上に置きながら、そう言って、何か重いものを次郎の背中の近くにほうり出した。そして、そのまま下に降りて行ってしまった。
次郎は、動きたくなかった。しかし、知らん顔をしているのも、父にすまないような気がしたので、父が梯子段《はしごだん》を降りきった頃に、ともかく起き上って、父が置いていったものを見た。それは新しい菓子折だった。そっと蓋《ふた》をとってみると、中にはまだ三分の二ほどのカステラが残っていた。それにナイフが一本入れてあった。
次郎はむしろあっけにとられた。甘いものが箱ごと自分の自由になるというようなことは、彼の経験の世界から、あまりにもかけ離れたことだったのである。彼は少し気味わるくさえ感じた。そしてちょっと父の心を疑ってみた。が、彼は急いでそれを打消した。それは、さっきの父の言葉が、いつもの快活な親しみのある調子をもって、彼の心に蘇《よみがえ》って来たからである。
彼は急に食慾をそそられた。で、彼はすぐカステラにナイフを入れはじめた。むろんそう沢山食べるつもりではなかった。しかし、食べているうちにやめられなくなって、何度もナイフを入れた。
そのうちに、彼は、あんまり慾ばって食べたら父に軽蔑されはしないだろうか、と心配し出した。見ると残りがちょうど箱の半分ほどになっている。切口がでこぼこで非常に体裁がわるい。彼はそれを直すために、もう一度うすく切りとって、それを食べた。そしてナイフを箱の隅に入れ、蓋をした。
(やっぱり、僕は父さんの子だ。)
彼はその時しみじみとそう思った。しかしまた、彼は考えた。
(だが、どうして僕にだけ次郎なんていう名をつけたんだろう。恭ちゃんはお祖父さんの名から、俊ちゃんは父さんの名からとってつけてあるんだのに。)
尤も、この疑問は、これまでにもたびたび彼の心に浮かんでいたことなので、少し慣《な》れっこになっていたせいか、さほどに気にはかからなかった。そして、いつとはなしに、
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