いつとはなしに、彼の雑嚢の中から影をひそめてしまった。
お浜に関する思い出の種が、こうしてつぎつぎに消えていくことは、ある意味では、次郎の心を落ちつかせた。しかし、彼が最も親しんで来た一つの世界の完全な消滅が、彼の性格に何の影響も与えないですむわけはなかった。立木を抜かれた土堤のように、彼の心は、その一角から次第に崩れ出して、一つの大きな空洞を作ってしまった。その空洞は、わけもなく彼を淋しがらせた。そしてその淋しさをまぎらすには、もう戦争ごっこや何かでは間にあわなかった。彼は、ともすると、一人で物を考えこんだ。そして、そろそろと物を諦《あきら》めることを知るようになった。それが一層彼の性質を陰気にした。
しかも彼は、こうした心の変化の最中に、不思議なほど続けざまに人間の臨終というものに出っくわしたのである。六月には正木の伯母が死んだ。九月には従兄弟の辰男が死んだ。そして十一月には本田のお祖父さんが死んだ。
伯母は、昼間の明るい部屋の中で息を引きとったが、その臨終に大きく見開いた眼と、その蝋細工のような皮膚の色とは、気味わるく次郎の頭に焼きついた。辰男は急病で死んだため、顔の相好《そうごう》に大した変化を見せなかったが、自分と同い年で、従兄弟たちの中でも一番親しい遊び相手であったということが、次郎の感傷をそそった。しかし、彼の心に最も大きな影響を与えたのは、何と言っても、本田のお祖父さんの臨終であった。
二二 カステラ
お祖父さんは、胃癌《いがん》を病んで永らく離室に寝ていたが、死ぬ十日はかり前から、ぼつぼつ親類の人たちが集まって、代り番こに徹夜をやりはじめた。その中には、次郎がはじめて見るような人たちも五六人いたが、とりわけ次郎の注意をひいたのは、何かというと念仏ばかり唱える老人たちであった。お祖父さんは、そういう人たちに特別な親しみを覚えていたらしく、いつも彼らを自分の枕元に引きつけて、いろいろと話をしたがった。
「もう間もなくじゃ。……明日か明後日にはお迎えが来るじゃろう。……お別れじゃな、いよいよ。」
お祖父さんは、ある日ふとそう言って、みんなの顔を一わたり見まわした。みんなは、顔を見合わせたきり默っていた。するとお祖母さんが、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、念仏をとなえた。
例の老人たちがすぐそれに和した。お祖父さんも、口の中でそれを唱えながら眼をつぶったが、しばらくすると、また眼を開いて、
「俊亮、きょうは家の見納めがしたい。……未練かな。」
俊亮は、その意味がのみこめなくて、みんなの顔を見まわした。
「未練かな。」
と、お祖父さんは、もう一度そう言って、しずかに眼をとじた。
「どうなさろうというんです?」
俊亮は病人の顔を覗きこんだ。
「戸板、……戸板をもって来い、わけはない。」
病人の眼がまたかすかに開いた。
みんなはすぐその意味がわかった。で、正月に餅を並べる時の大きな戸板が、間もなく納屋から運びこまれた。そして病人を敷蒲団ごとその上にのせると、みんなでそれを抱えて、そろそろと家じゅうをまわり歩いた。
次郎は、恭一や俊三と一緒に、その後について廻ったが、人数の多いわりに、いやに静粛だった。みしりみしり畳をふむ音と、おりおり老人たちの口から洩れる念仏の声とが、陰気な調和を保って、次郎の耳にしみた。
仏間に這入ると、すでに、新しい蝋燭《ろうそく》に火がともされていて、仏壇が燦爛《さんらん》と光っていた。念仏の声が急に繁くなった。次郎は、いつぞやそこでお祖母さんを転がした時のことをふと思い浮べたが、念仏の声に圧せられて、その思い出もすぐ消えてしまった。
お祖父さんは、どの部屋に這入っても、うなずくような恰好をしてみせた。次郎は、これまで自分に大して交渉のなかったお祖父さんのそうした表情を珍しく思った。そして、それが何となくなつかしいもののようにすら思えて来た。
二階を除いて、部屋という部屋は、ほとんど一巡された。そして、再び離れの病室に落ちつくまでには、おおかた小半時もかかった。
病人は疲れてすぐ眠った。傾きかけた日が障子を照らして、室内はいやに明るかった。病人が眠ったのを見ると、みんなはぞろぞろと部屋を出て、あとには俊亮とお祖母さんと次郎とだけが残った。
次郎は不思議にお祖父さんの顔から眼を放したくなかった。そのくぼんだ眼と、突き出た頬骨と、一寸あまりにも延びた黄色い顎鬚《あごひげ》とが、静かな遠いところへ彼を引っぱっていくように思えたのである。
「次郎は賢いね。」
お祖母さんは、病人の足を擦《さす》ってやりながら言った。
次郎は、お相母さんにこんな口を利《き》かれると、きっとそのあとに、いやな仕事を言いつかるのを知っていたので、いつもなら、すぐ反感を抱くとこ
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