な、悲壮な気分になった。
「わあっ!」
 突撃がはじまったらしく、廊下を狂暴に走りまわる音がきこえた。しかし、間もなく誰かが叫んだ。
「おい! 次郎ちゃんがいないぞ。」
「ほんとだ。どうしたんだろう。」
「戦死したんか。」
「馬鹿いえ。」
「弾丸を取りに行ったんだろう。」
「そうかも知れん。」
「おうい、次郎ちゃん!」
「じーろーちゃん!」
 みんなが声をそろえて叫んだ。次郎は、しかし、彼らに答える代りに、そっと床下にもぐりこんで、息を殺した。
 かなり永い間、次郎の捜索が続けられた。最後に、みんながどやどやと校番室に這入って来た。
「いないや。」
「馬鹿にしてらあ。」
「もう次郎ちゃんなんかと遊ぶもんか。」
「そうだい。」
「怪我したんじゃないだろうな。」
「そんなことあるもんか。」
「帰ろうや、つまんない。」
「馬鹿言ってらあ、これから、新しい学校に行くんだい。」
「そうだ、次郎ちゃんも、もう行ってるかも知れんぞ。」
「そうかも知れん。早く行こうよ。」
「行こう。」
「行こう。」
 みんなが去ったあと、次郎は、荒らされきった校舎の中を、青い顔をして、一人であちらこちらと歩きまわった。廊下にころがっている小石が、時たま彼の足さきにふれて、納骨堂で骨が触《ふ》れあうような冷たい音を立てた。壁の破れ目から、うっすらとした冬の陽が、射したり消えたりするのも、たまらなく淋しかった。
(乳母やは、もういない。)
 彼は、ふと立ち停って、しみじみとそう思った。とたんに、彼の眼から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

    二一 土台石

 お浜の一家からは、その後、到着を報じたくちゃくちゃの葉書が、年内に一通と、年が明けて十日も経ったころ、次郎に宛《あ》てたお鶴の年賀状が来たきり、何の音沙汰もなかった。
 年賀状は、真紅《まっか》な朝日と、金いろの雲と、真青《まっさお》な松とを、俗っぽく刷り出した絵葉書であったが、次郎は、何よりもそれを大切にして、いつも雑嚢《ざつのう》の中にしまいこんでいた。
 そのうちに学年が変って、彼は四年に進級した。そして、新しい校舎からは、木の香がそろそろとうせていった。同時に、お浜たちに関するいろいろの記憶も、次第に彼の頭の中でぼやけはじめた。
 旧校舎のあとには、永いこと、土台石がそのままに残されていた、その白ちゃけた膚を、雑草の中から覗かせていた。次郎はそれを見ると、泣きたいような懐しさを覚えた。彼は、学校の帰りなどに、仲間たちの眼を忍んでは、よく一人でそこに出かけて行った。
 ある日、彼が例のとおり、土台石の一つに腰をおろして、お鶴から来た年賀状を雑嚢から取り出し、じっとそれに見入っていると、いつの間にか、仲間たちが彼の背後に忍びよって来た。
「次郎ちゃん、何してんだい。」
 次郎は、だしぬけに声をかけられて、どぎまぎした。そして、なにか悪いものでも隠すように急いで絵葉書を雑嚢の中に押しこみながら、彼らの方にふり向いた。
「ほんとに何してんだい。」
 仲間の一人が、いやに真面目な顔をして、もう一度訊ねた。
「この石が動かせるかい。」
 次郎はまごつきながらも、とっさにそんな照れかくしを言うことが出来た。そして、言ってしまうと、不思議に彼のいつもの横着さが甦って来た。
「何だい、こんな石ぐらい。」
 仲間の一人がそう言って、すぐ石に手をかけた。石は、しかし、容易に動かなかった。するとみんなが一緒になって、えいえいと声をかけながら、それをゆすぶり始めた。まもなく、石の周囲に僅かばかりの隙間が出来て、もつれた絹糸を水に浸して叩きつけたような草の根が、真っ白に光って見え出した。
 次郎は、大事なものを壊されるような気がして、いらいらしながら、それを見ていたが、
「馬鹿! みんなでやるんなら、動くの、当りまえだい。」
 と、いきなり彼らを呶鳴りつけた。
「なあんだい、一人でやるんかい。」
 みんなは手を放した。
「当り前だい。僕だって一人でやってみたんだい。」
「何くそっ。」
 最初に石に手をかけた仲間が、また一人でゆすぶり始めた。が、一人ではどうしても動かなかった。
「よせやい。動くもんかい。」
 次郎はそう言って雑嚢を肩にかけると、さっさと一人で帰りかけた。
「馬鹿にしてらあ。」
 仲間達は、不平そうな顔をして、しばらくそこに立っていたが、次郎がふり向いても見ないので、彼らも仕方なしに、ぞろぞろと動き出した。
 だが、土台石も、夏が近まるとすっかり取り払われて、敷地は間もなく水田に変った。そして今では、どこいらに校舎があったのかさえ、見当がつかなくなってしまっている。
 お鶴からの年賀状だけは、その後も大事に雑嚢の中にしまいこまれていたが、手垢がついたりするにつれて、それも次第に次郎の興味を惹《ひ》かなくなり、
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