、次郎の頭をなでながら、しばらく何か考えていたが、
「では、次郎ちゃん、もうお帰りなさいね。乳母やはこれから、正木のお祖母さんとこに伺《うかが》って、それからじき次郎ちゃんとこに行きますわ。お母さんがいいっておっしゃったら、今夜は一緒に寝ましょうね。」
二人は手をつないで立ち上った。そして、校門を出ると、言い合わせたように立ち止って、校舎を見上げた。
もうその時は、最後の運搬者たちが引きあげたあとで、物音一つしない古い校舎が、黄色い夕陽の中に、さむざむとしずまりかえっていた。
二〇 旧校舎
その晩、お浜が別れを告げに来た時には、本田の一家も、流石にしんみりとなった。ふだん彼女の顔を見るのも嫌いだったお祖母さんまでが、みんなと調子を合わせて、十一時近くまで起きていた。そして、俊亮やお民が、お浜に二三日泊っていくようにすすめると自分もはたから口を出して、
「次郎もかわいそうだから、是非そうしておくれ。」とか、
「お正月も、もう近いことだし、どうせそれまでゆっくりしたらどうだね。」
とか言って、いやにちやほやした。お浜は心の中で、
(ふふん、そのご挨拶の気持も、どうせ明日まではつづくまい。)
と考えながらも、流石にいつもよりはずっと楽な気分になって、腰を落ちつけた。そして、すすめられるままに、一晩だけ、泊っていくことにした。
次郎とお浜は、同じ蒲団の中にねたが、二人とも、容易に寝つかれなかった。眠ったかと思うと、すぐ眼をさまして、何度も冷たい夜具の中で、かたく抱きあった。
しかし、翌朝次郎が眼を覚ました時には、お浜はもう寝床の中にはいなかった。次郎ははね起きて、家じゅうを探しまわったが、彼女の姿はどこにも見えなかった。彼は、昨夜彼女が風呂敷包を持って来ていたことを思い出して、そのありかを探してみたが、やはりそれも見つからなかった。
彼はかなりうろたえた。しかし、誰にもお浜のことをたずねてみようとはしなかった。人に秘密にしていたものを失くした時のように、一人でそわそわと、家じゅうを歩きまわっていた。みんなは、彼のそうした様子を見ながら、わざとのように口をきかなかった。
朝飯をすますと、彼はすぐ戸外に飛び出して、仲間を集めた。そして、いつものように戦争ごっこを始めたが、何となく気乗りがしなかった。「進め」の号令をかけて、仲間を前進さしておきながら、自分だけは、ぽかんと道の真ん中に突っ立っていたりした。
「面白くないなあ。」
とうとう仲間の一人が不平を言い出した。
「学校に行ってみようや。」
他の一人が提議した。みんながすぐそれに、賛成した。
「前へ進め!」
次郎はすぐ、彼らを二列縦隊に並べて、号令をかけた。彼はみんなの先顔に立って、今度は非常に元気よく歩き出した。
むろん、他の子供たちは新校舎の方に行くつもりでいた。ところが、次郎は、別れ道のところまでくると、道を左にとって、旧校舎の方に行こうとした。
「どこへ行くんだい?」
「こっちだい。」
みんなは列をくずして、がやがや言い出した。それからしばらくの間、彼らと次郎との間に論戦が交された。彼らは、あんな破れかかった学校なんかつまらない、と言った。次郎は、空家になった校舎の中であばれるのは面白い、と言った。議論は容易に決しなかった。
「僕一人で行かあ。」
とうとう次郎は怒り出して、さっさと一人で旧校舎の方に歩き出した。するとみんなもしぶしぶそのあとについた。
ところで、空家になった校舎の中で、存分にあばれまわることは、彼らの予期しなかった新しい楽しみだった。第一、床板の反響が、異様に彼らの耳を刺激した。壁の破れ目に、棒を突っこんでこじ上げると、大きな壁土がくずれ落ちて、砲撃の瞬間を思わせるような感じを与えるのも彼らの興奮の種だった。彼らは、ついに、むりやりに数枚の床板をはずして、そこを塹壕《ざんごう》になぞらえ、校庭から沢山の小石を拾って来て、それを弾丸にした。小石が土壁にあたると土煙が立ち、板壁にあたると、からからと音を立てた。墓地や鎮守の杜でやる戦争ごっことちがって、次から次へと、眼の前に惨澹《さんたん》たる破壊のあとが現れるので、彼らはいよいよ興奮した。
次郎は、しかし、彼らが興奮すればするほど、淋しくなった。彼は、間もなく、自分の思いつきを後悔した。そんて、仲間が石投げに夢中になっている間に、一人でこっそり校番室に這入りこんで、昨日お浜が腰をおろしていたあたりに、悄然と腰をおろした。
小石はおりおり、校番室の隣の部屋にもがらがらと音を立てて、ころげて来た。そのたびに、彼は胸の底を何かで突っつかれるような痛みを感じた。
(この部屋だけは荒らさせたくない。)
彼は、急に、仲間のすべてを敵にまわして、自分一人で校番室を守ってでもいるよう
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