このを運ぶんだい。」
 次郎は、そう言いながら、あらためて部屋を見まわした。
「そう? でも、もう何もありませんのよ、ほら。」
 お浜は相変らず頬杖をついたまま、ほんの僅かだけ首を動かして、あたりを見た。
「早いなあ、乳母やは。」
「早いでしょう。」
「今日運んだんかい。」
「いいえ、もう昨日から。」
「昨日からなら、早いの当りまえだい。」
「そうね。」
「今度の学校、いいなあ。」
「ええ。いいわね。」
「乳母やの部屋はどこだい。僕探したんだけれど、わかんなかったよ。」
「そう? 探して下すって? でも、乳母やのいる部屋は、もうありませんのよ。」
「ない? 嘘言ってらあ。」
「本当よ。……あのねえ、次郎ちゃん、あたしたちは、もう学校の校番ではありませんの。」
「嘘だい。」
「嘘じゃありませんの。」
「だって、校番がいなくてもいいのかい。」
「これからは、小使さんだけになるんですって。」
「小使さんだけ? じゃ乳母やがそれをやるんかい。」
「いいえ、小使さんは女ではいけないんですって。」
「可笑しいなあ。じゃ爺さんがなったらいい。」
「爺さんも老人だから、やっぱりいけないんですって。」
「馬鹿にしてらあ。じゃ誰がなるの。」
「今日あちらに誰かいたでしょう。次郎ちゃん、逢わなくって?」
 次郎は、さっき新校舎の廊下を、忙しそうに走りまわっていた背の低い、小倉服を着た四十恰好の男を思いだして、あれが小使だなと思った。同時に、今まで楽しみにしていた新校舎が、急に呪《のろ》わしいもののように思われ出した。
 彼は、もう一度、古い部屋の壁や天井を見まわした。長押《なげし》の下の壁の上塗《うわぬり》が以前から一ところ落ちていて、ちょうど俯伏《うつぶせ》になった人間の顔の恰好をしていたのが、今日はいつもより大きく見える。鼠が騒ぐたびに、よく竹の棒を突き刺していた天井の節穴からは、煤《すす》ぼけた蜘蛛の巣が下っている。彼は、そうしたものを見ているうちに、以前ここに寝泊りしていた頃のいろいろの記憶を呼びもどして、甘えたいような、淋しいような、変な気持になっていた。
 教室の方からは、先生や上級の児童たちが、大声で叫びかわしながら、がたぴしと物を動かしている音が、ひっきりなしに聞えて来る。
「爺さんはどこにいる?」
 次郎はお浜に寄りそって、腰を掛けながら訊ねた。
「もういませんわ。昨日皆で行ってしまったの。」
 次郎は、この二三日、お鶴が学校を休んでいたことを思い出した。
「どこへ行ったんだい。」
「遠いところ、……石炭を掘る山なの。……次郎ちゃんはそんなとこ行ったことないでしょう。」
「乳母やもそこに行くの?」
「ええ。……でも、……でも、ねえ次郎ちゃん、……」
 お浜は急に鼻をつまらした。
「乳母やは行かなくてもいいんだい。……僕んちに来ればいいんだい。……僕、父さんに……」
 次郎はそう言いかけて息ずすりした。
「次郎ちゃんは、そんなこと出来ると考えて? お母さんやお祖母さんが、きっといけないっておっしゃるわ。」
「…………」
「それに、ほら、こないだも次郎ちゃんは、お祖母さんに大変なことをなすったっていうじゃありませんか。」
「…………」
「ですから、そんなことお父さんにお願いしても、駄目ですわ。……それに次郎ちゃんは、もう乳母やなんかいなくても大丈夫でしょう。」
「だって、僕……」
「いけませんわ、そんな弱虫じゃあ。」
 お浜は急にいつものきつい声になって、おさえつけるように言った。
「違うよ。僕弱虫なんかじゃないよ。」
 次郎は弱虫と言われて興奮した。彼は、このごろ恭一や俊三に決して負けてなんかいないということを、お浜に話したかったが、どんなふうに話していいか、わからなかった。
「そう、弱虫なんかじゃありませんわね。ですから、乳母やも安心していますの。……でも、お祖母さんに乱暴なさるのはおよしなさいね。お父さんに怒られるといけませんから。」
「だって僕、お祖母さんは大嫌いだい。」
「でも、お祖母さんですもの、仕方がありませんわ。こないだのようなことをなさると、お父さんだって、默っちゃいらっしゃらないでしょう。」
「ううん? 父さん何も言わなかったよ。」
「そう? お母さんは?」
「母さんも、何も言わなかったよ。」
「ほんと?」
 お浜は不思議そうに訊ねた。
「ほんとうさ。このごろ母さんは、僕をあまりいじめなくなったんだい。」
「そう? それは次郎ちゃんがお利口におなりだからでしょう。」
 次郎はきまり悪そうな顔をしながら、
「こないだ絵本を買ってくれたよ。」
 お浜は、つい十日ばかり前に、正木のお祖母さんに、「お民もこのごろ少し考えが変って来たようだから、安心おし。」と言われたことを思いあわせて、いくらか明るい気持になった。
 そして
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