元に眼をやりながら叫んだ。次郎の下駄をそこに見つけたのである。次郎はしまったと思った。
「直吉、竹竿を持っておいで。」
お祖母さんは、次郎を見上げて物凄い顔をした。さすがに次郎もうろたえた。彼は大急ぎで木から滑り降りて、庭の方に逃げ出した。
「直吉、表の方からまわって、次郎をつかまえておくれ、俊亮も、今度こそはしっかりしておくれよ。」
そう言って、お祖母さんは自分で次郎のあとを追いかけた。次郎はすばしこく植込をぬけ、座敷の縁を上って、家の中に逃げこんだ。座敷と茶の間との間は仏間になっている。そこは、お燈明がともっていないと、昼間でも真っ暗である。次郎は、そこに飛びこむと、平蜘蛛《ひらぐも》のように畳に体を伏せて息を殺した。
抹香《まっこう》くさい空気が、しめっぽく彼の鼻を出はいりする。
「どこに失せおった。」
お祖母さんは、はあはあ息をしながら仏間へ這入って来たが、すぐ、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
と、念仏をとなえた。
次郎は、なるだけ体を小さくするために、足を引っこめたが、それがついお祖母さんの足に引っかかった。お祖母さんは、枯木のように畳の上に倒れた。
「誰か来ておくれ!」
お祖母さんは、今にも息の切れそうな声で叫んだ。次郎は、その間にはね起きて、毬のように座敷をぬけると、再び庭に飛び出した。
しかし、そこには、俊亮が默然《もくねん》と腕組をして立っていた。次郎は、彼と眼を見あわせた瞬間に、急に身動きが出来なくなってしまった。
「次郎、父さんについて来い。」
次郎は、おずおずと父のあとに従った。間もなく、二人は二階の暗い一室に向かいあって坐っていた。
俊亮は、しかし、坐っているだけで一言も言葉を発しなかった。次郎は、はじめのうちは、もじもじと膝をを動かしていたが、とうとうたまらなくなって泣き出した。すると俊亮もそっと自分の眼をこすった。
小一時間もたったあと、二人は二階から降りて来たが、俊亮の恐ろしく緊張した顔を見ると、お祖母さんもお民も、お互に顔を見合わせただけで、何も言わなかった。
一九 校舎移転
学校の校舎が古くて危険だという話は、町の人達の間に、大分前から話しあっていたが、やっとこの頃になって新築工事が始まった。場所は現在の校舎から三四丁も離れた川端であった。川には欄干《らんかん》のついた大きな板橋がかかっており、そのむこうにはこんもりと繁った杉林があった。その杉林を背景にして、新しい柱が、何本も何本も、真っ白に光って立ち並んでいくのを、子供たちは、毎日教室の窓から眺めて、胸を躍らせた。
「今度の学校はすばらしい。」
休み時間になると、誰言うとなく、そんなことを言い出して、彼らはお互に感激にひたるのだった。
次郎は、授業が終ると、きっと四五人の仲間と大工小屋にやって来て、仕事の運びを眺めたり木屑を玩具《おもちゃ》にして遊んだりした。彼は自分たちの教室のことよりも、お浜たちの部屋がどの辺になるだろうかと、いつもそれを注意していた。そして何度も大工たちにそれをきいてみるのだったが、誰もろくに返事をしてくれる者がなかった。
いよいよ落成したのは、その年の暮近くだった。次郎は、部屋という部屋を一わたり歩いてみたが、どの部屋もがらんとしていて、校番室がどれだか、まるで見当がつかなかった。土間につづいた三畳敷の部屋が、それだろうとも思ったが、それにしては少し狭《せま》すぎた。その次に、もう一つかなりの広い畳敷があった。しかしそれは三畳敷とは壁で仕切ってあり、それに床の間がついていたりして、お浜たちの部屋にしては、少し立派すぎるように思えた。
明日から冬休みが始まるという日に、三年以上の児童たちは、みんな居残って、旧校舎の道具を、新校舎に運びこむことになった。それは児童たちにとっては、このごろにない愉快な作業だった。霜どけの田圃《たんぼ》道を、黒板や、腰掛や、掃除道具などの行列が、かまびすしい話し声と共につづいていた。
次郎は、腰掛を一つと箒を一本だけ運んでしまったらすぐかえってもいい、と先生に言われていた。しかし、彼は、それだけでは何だか物足りなく感じた。六年生などと一緒に、黒板か何か大きいものを担《かつ》いで、もっとはしゃいでみたい気がした。で、彼は、自分の受持をすましたら、校番室の道具でもいくらか手伝ってやろうと考えていた。
しかし、彼が新校舎から引返して来て校番室に這入ってみると、そこはもうがらんとしていて箒一本残っていなかった。そして、お浜かたった一人、気ぬけがしたように上り框に腰をかけて、自分の膝の上に頬杖をついていた。彼女は次郎の這入って来るのをぼんやり見ていたが、
「次郎ちゃん、もうおすみ?」
と、力のない声で言った。
「ああ、すんだよ。これから乳母やのと
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