来た。
お民は、次郎のそうした変化を、内心喜んだ。彼女は、自分の教育の力が、やっとこのごろ次郎にも及んで来たのだと思ったのである。そこで、彼女は、この機を逸してはならないと考えて、何かと次郎に接近しようと努めた。これは次郎にとってはまことにうるさいことであった。しかし、この頃では、以前ほど叱言《こごと》も言わないし、時としては、思いがけない賞め言葉を頂戴したりするので、次郎の母に対する感じも、いくらかずつ変って来た。
ただ祖母に対してだけは、次郎は微塵《みじん》も好感が持てなかった。彼女は、お民とちがって、よく食物で次郎をいじめた。お民は、その点では、三人に対してつとめて公平を保とうとした。少なくとも、三人をならべておいて、あからさまに差別待遇をするようなことは決してなかった。ところが祖母は、そんなことは一向平気で、お民の留守のおりなどには、食卓の上で、わざとのように差別待遇をした。
「次郎、お前、どうしてお副菜《かず》を食べないのかい。」
「食べたくないよ。」
次郎は決して、自分の皿の肴が、兄弟の誰のよりも小さいからだ、とは言わない。
「可笑《おか》しいね。ご飯はそんなに食べてるくせに。」
そう言われると、次郎は、それっきりご飯のお代りもしなくなる。
「おや、ご飯も、もうよしたのかい。」
「今日は、あんまり食べたくないよ。」
「お腹でも悪いのかい。」
「…………」
次郎はちょっと返事に窮する。
「また、何かお気に障ったんだね。」
「そんなことないよ。」
しかし、そっぽを向いた彼の顔付が、あきらかに彼の言葉を裏切っている。同時に、ちゃぶ台のまわりの沢山の眼が、皮肉に彼の横顔をのぞきこむ。
こうなると、彼は決然として室を出て行くより、仕方がないのである。
「おや、おや。」
と、うしろでは嘲るような声。つづいて、
「まあ、どこまでねじけたというんだろうね。」
と、変な溜息まじりの声。
「放っときよ。ねじけるだけ、ねじけさしておくより仕方がないさ。」
と、いかにも毒々しい声がきこえる。
先ず、こういった調子である。
また、兄弟三人が、珍しく仲よく遊んでいるのに、お祖母さんは、わざわざ恭一と俊三の二人だけを離室に呼んで、いろんな食物を与えたりすることもある。
そんな時の次郎は、実際みじめだった。彼は、しかし、食べ物を欲しがっていると祖母に思われたくなかった。また、一人だけのけ者にされているのを気にしている、と思われるのも癪だった。で、彼は、つとめて平気を装《よそ》おうとして、非常に苦しんだ。それは、彼が負けぎらいな性質であるだけに、一層不愉快なことだった。いつも辛うじて自制はするものの、彼の腹の中では、真っ黒な炎がそのたびごとに濃くなって、いつ爆発するかわからなくなって来た。――およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。
ある日、次郎は、お祖母さんが小さな菓子折を持って離室に這入って行くのを見た。何処かの法事にでも行って来たらしく、紋付の羽織を引っかけていた。
次郎は、今日もまた、恭一と俊三だけがそれを貰うのだと思うと、我慢が出来なくなった。で、お祖母さんの隙を見て、これまでめったに這入ったことのない離室に、こっそりしのびこんだ。
菓子折は違棚の上にお祖父さんの算盤と並べてのせてあった。彼は、それをつかむと、いそいで裏の畑に出た。そこで彼は、紐を解いて中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐ思いかえして、それを放りなげ、下駄で散々にふみつけた。折箱の隅からは桃色の羊羹がぬるぬるとはみ出した。彼はお祖母さんの頭でもふみつけるような気がして、胸がすうっとなった。
間もなくお祖母さんが騒ぎ出した。むろん、みんなもそれにつづいて騒いだ。「次郎!」「次郎!」と呼ぶ声が、あちらからも、こちらからも聞えた。しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏《いちょう》の樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。
直吉の頓狂な叫び声で、みんなが畑に出て来た。ふみにじられた折箱を囲んで、さまざまの言葉が入り乱れた。
「まあ、何ということでしょう。」
お民が青い顔をして言った。俊亮はみんなのうしろに立って、腕組をして考えこんでいた。
「あれ、あれ、勿体《もったい》もない。」
お糸婆さんは、いかにも勿体なさそうに、そう言って、ぺちゃんこになった折箱を拾いあげた。しかし、どうにも始末に終えないとみて、お祖母さんの顔を窺《うかが》いながら、すぐまた地べたに放りなげた。
みんなはあきらめて、ぞろぞろと母屋の方に帰りかけた。
「おやっ。」とお祖母さんが銀杏の根
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