彼は、カステラの箱をこのままここに置いたものか、それとも階下に持って行ったものかと、しきりにそのことを考えていた。
 そのうちに、ふと、階下で人々のざわめく気配がし出した。
 次郎は、はっとして、カステラの箱を小脇に抱えるなり、階段を降りて、大急ぎで離室《はなれ》の方に行った。離室は人の頭で真っ黒だった。大ていの人は立ったまま病人を見つめていた。次郎がその間をくぐるようにして前に出た時には、ちょうど医者が注射を終ったところであった。
「大丈夫でしょう、ここ一二日は。……しかし今日のような御無理をなすっちゃいけませんね。」
 と、医者は俊亮の耳元に口をよせて、囁《ささや》くように言った。
「よほど静かにやったつもりですが、……」
「どんなに静かでも、これほどの御病人を動かしたんでは、たまりませんよ。」
 間もなく医者は出て行った。みんなも安心したように、ぞろぞろとそのあとにつづいた。部屋には、家の者全部と念仏好きの老人たちだけが残った。
 次郎は、その時まで、まだ突っ立ったままでいたが、急にあたりががらんとなったので、自分もそこに坐ろうとした。そのはずみに、彼は自分がカステラの箱を抱えていることに気がついて、急に狼狽《ろうばい》した。
「次郎、お前何を抱えているんだね。」
 と、お民が先ずそれを見つけて言った。みんなの視線が次郎に集まった。するとお祖母さんが、
「おや、カステラの箱じゃないのかい。さっきお茶の間においたのが急に見えなくなったと思ったら、まあ呆れた子だね。」
 声はひくかったが、毒々しい調子だった。
「なあに、私か次郎にやったんです。……次郎、まだ残ってるなら、恭一や俊三にもわけてやれ。まさか、みんなは食えなかったんだろう。」
 俊亮はにこりともしないで言った。
 変にそぐわない空気が部屋じゅうを支配した。次郎は箱を恭一の前に置いて、父のそばに坐った。彼の心は妙にりきんでいた。
 永いこと沈默が続いた。そのうちに、次郎の眼は、次第に病人の顔に吸いつけられたが、まだ心のどこかでは祖母と母とを見つめていた。

     *

 お祖父さんがいよいよいけなくなったのは、それから三日目の夜だった。次郎たちはもう寝ていたが、起されてやっと臨終の間にあった。念仏の声が入り乱れている中で、彼も、鳥の羽根で御祖父さんの唇をしめしてやった。
「御臨終です。」
 医者の声は低かったが、みんなの耳によく徹《とお》った。次郎は、半ば開いたお祖父さんの眼をじっと見つめながら、死が何を意味するかを、子供心に考えていた。彼はその場の光景を恐ろしいとも悲しいとも感じなかった。ただ、死ねば何もかも終るんだ、ということだけが、はっきり彼の頭に理解された。
 最初に声をあげて泣き出したのは、お祖母さんだった。誰も彼もが、その声に誘われて鼻をすすった。
「三日前から、もう自分の臨終を知って、家の中まで見廻るなんて、何という落ちついた仏様でしょう。」
 お祖母さんは、声をふるわせながら、そう言って、仏の瞼《まぶた》をさすった。
「ほんとうに。」
「ほんとうに。」
 お祖母さんに合槌をうつ声が、そこここから聞えた。そして、また一しきり念仏の声が室内に流れた。
 次郎は、しかし、やはり悲しい気分にはなれなかった。
(お祖母さんは、きっとまたそのうちにカステラのことを思い出すだろう。)
 彼はそんなことを考えていた。しかしそれは決して、お祖母さんに対する皮肉や何かではなかった。「死ねば何もかも終る」という彼の考えが、「死ななければ何一つおしまいにはならない」という考えに移っていったまでのことだったのである。

    二三 蝗の首

 由夫と竜一とは、学用品を入れた雑嚢を路に放り出して、蝗《いなご》の首取り競争をはじめている。蝗を捕えては、それを着物の襟に噛《か》みつかせて、急に胴を引っぱると、首だけがすぽりと抜けて襟に残る。それはいかにも残酷な遊びなのである。
「僕、もう五疋だぜ。」
 と、由夫がにやにやしながら言う。
「僕だって、すぐ五疋だい。」
 竜一は額に汗をにじませて、少しあせっている。
「早く十疋になった方が勝だぜ。」
「うむ、よし。」
「僕が勝ったら、何をくれる?」
「ナイフをやらあ。」
「じゃ、僕負けたら色鉛筆をやる。」
「ようし、……ほら五疋。……あっ、畜生、またはずしちゃった。こいつ、うまく噛みつかないなあ。」
 竜一はそう言って、握っていた蝗を気短かに地べたに投げつけた。
「ほら、僕、もう六疋だぜ。」
 と、由夫はますます落ちついている。
「くそ! 負けるもんか。」
 竜一は顔を真赤にして新しく蝗をつかまえにかかった。
 由夫は村長の次男坊、竜一は医者の末っ子である。隣同士なせいで、よく一緒になって遊びはするが、両家の間に変な競争意識があっ
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