がそう言って土堤《どて》を上った。もう一人は默ってそのあとに蹤《つ》いた。次郎は二人を見送ったあとで、裸になって一人で着物を搾《しぼ》りはじめた。
「みんなで搾ろうや。」
 仲間たちがぞろぞろと岸に下りて来た。恭一と真智子は、しょんぼりと道に立っていた。
 次郎は、搾った着物を帯でくくって肩にかつぐと、裸のまま、みんなの先頭に立って、軍歌をうたいながらかえって行った。
 彼は、真智子もこの一隊の後尾に加わっているのを知って、たまらなく愉快だった。恭一と喧嘩をしてみようなどという気は、その時には、彼の心のどの隅にも残っていなかった。
 恭一は、もう彼の相手ではないような気がしていたのである。

     *

 その晩は、真智子の母が訪ねて来て、みんなと晩《おそ》くまで話しこんだ。真智子も無論一緒について来ていた。話は今日の出来事で持ちきりだった。真智子の母は、何度も次郎の頭をなでては、彼の勇気をほめそやした。次郎はぼうっとなってしまった。
 お糸婆さんは、
「お体は小さいけれど、胆《きも》っ玉の大きいところは、お父さんにそっくりです。」と言った。
 次郎は体の小さいことなんか言わなくてもすむことだと思った。しかし、いつものようには腹が立たなかった。お民は、
「この子の乱暴にも困りますわ。」と言った。
 しかし、喜太郎の膝に噛りついた時とは、母の様子がまるでちがっていることは、次郎にもよくわかった。
 ただ彼が物足りなく思ったのは、一座の中に父がいなかったことと、真智子が相変らず恭一にばかり親しんでいることであった。

    一七 そろばん

「人間というものはね、嘘をつくのが一番いけないことです。嘘をつくのは泥棒をするのとおんなじですよ。ですから、知っているなら知っていると、誰からでも早くおっしゃい。ぐずぐずしてはいけません。早く言いさえすれば、きっとお祖父さんも許して下さるでしょう。」
 お民は、子供たち三人を行儀よく前に坐らして、まるで裁判官のような厳粛さをもって、取調べを開始した。言葉つきまでが、今日はいやに丁寧である。次郎はばかばかしくって仕方がなかった。
 本田のお祖父さんは、昔、お城の勘定方《かんじょうがた》に勤めていただけあって、算盤《そろばん》が大得意である。今もその当時使った象牙《ぞうげ》の玉の算盤を、離室の違棚《ちがいだな》に置いて、おりおりそれを取り出しては、必要もないのにぱちぱちとやり出す。離室に刀掛も飾ってあったが、お祖父さんにとっては刀よりも算盤の方に思い出が多かったし、自然その方に親しみもあった。かといって、お祖父さんに商人らしいところがあるのかというと、そうではない。人柄はあくまでも士族なのである。若い頃は、恐らく、物静かな、事務に堪能《たんのう》な、上役にとって何かと重宝《ちょうほう》がられた侍の一人であったろう、と思われる。
 ところで、このお祖父さんの算盤に対する愛着は、年をとるにつれて、だんだんと神経的になっていった。算盤を弾《はじ》き終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事に蓋《ふた》をかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。そして、もしその算盤が自分の置いた位置から少しでも動いていると、誰かがきっと叱られなければならなかった。お祖父さんに言わせると、蓋をとって、玉の様子を見れば、人が触《さわ》ったかどうかがすぐわかる、と言うのである。
 この大事な算盤の桁《けた》が、いつの間にか一本折れていた。これはまさしく本田一家にとっての大事件でなければならない。お民が厳粛になるのも無理はなかったのである。
 しかし、次郎にとっては、これほどばかばかしいことはなかった。第一、彼は、このごろ離室なんか覗いたこともないし、また覗こうと思ったことすらない。
(それに、算盤が一体何だ。そんなものに触ってみたところで、面白くも何ともありゃしないじゃないか。)
 そう考えると、彼は真面目に母の前にかしこまっているのでさえ無駄なような気がして、一刻も早く仲間のところへ飛び出して行きたかった。
「お祖父さんは、お前たち三人のうちにちがいない、とおっしゃるんですよ。私もそう思います。放りなげでもしなければ、あんなになるわけがないのだからね。」
 そう言って、お民はじろりと次郎を見た。
 次郎は平気だった。しかし、もうその時には随分退屈しているところだったので、眼を天井にそらしたり、膝をもじもじさせたりして落ちつかなかった。
 お民はむろん次郎のそうした様子を見のがさなかった。
「次郎、お前、知ってるでしょう。」
 次郎はにやにやして母の顔を見た。
「ね、そうでしょう。」
 お民はいやにやさしい声をして、たたみかけた。
「僕、お祖父さんの算盤なんか見たこともないや。」
 と、次郎は、
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