わざとらしく天井を見ながら答えた。
「見たこともない? お祖父さんのあの算盤を? おとぼけでないよ。」
「ほんとうだい。」
次郎は少し躍起《やっき》となった。
「そんなはずはありません。お前、そんな嘘をつくところをみると……」
お民は言いかけてちょっと躊躇した。次郎が恭一のカバンを便所に放りこんだ時のことを考えると、高飛車に出ても駄目だと思ったからである。
しばらく沈默がつづいた。次郎は、つぎの言葉を催促するかのように、皮肉な眼をして母の顔を見まもっていた。
お民は大きく溜息をついた。そしてしばらくなにか考えていたが、
「母さんがいいお話をしてあげるから、三人とも、よくお聴き、昔、アメリカというところにね……」
と、彼女は、ワシントンが少年時代に過《あやま》って大切な木を切り倒したという物語を、出来るだけ感激的な言葉を使って、話し出した。それは恭一と次郎にとっては、もう決して新しい物語ではなかった。次郎は、話っぷりは学校の先生の方がうまいな、と思って聴いていた。
「大きくなって偉くなる人は、みんな子供の時、この通りに正直だよ。解ったかい。」
話はそれで終った。次郎は、先生もそんなことを言ったが、たったそれっぱかしじゃなかったと思った。が、同時に、彼の頭に、ふと妙な考えが閃《ひら》めいた。
(自分でやったことをやったと言うのは、当りまえのことじゃないか。その当りまえのことがそんなに偉いなら、やらないことをやったと言ったら、どうだろう。それこそもっと偉いことになりはしないかしら。)
次郎の心では、算盤を壊《こわ》したのは、恭一か俊三かに違いないと睨んでいた。その罪を自分で被《き》るのはばかばかしいことではある。しかし彼の胸には、こないだの橋の上での事件以来、一種の功名心が芽を出している。それに、このごろ、妙に恭一が哀れっぽく見えて、彼のためなら、罪を被てやってもいいような気もする。
(もし俊三だったら――)
そうも考えて見た。すると、あまりいい気持はしなかった。しかし、ワシントン以上の偉い行いをしてみようという野心も、何となく捨てかねた。それに、第一、彼は、いつまでもこうして母の前に坐らされているのに、もうしびれを切らしていたのである。で、彼は、つい、
「僕、こわしたんだい。」
と、大して緊張もせずに、言ってしまった。
「そうだろう。ちゃんとお母さんにはわかっていたんだよ。」
お民の口調《くちょう》は案外やさしかった。
「それでどうして壊したんだね。」
お民は取調べを進めた。次郎は、しかし、その返事にはこまった。実は、彼もそこまでは考えていなかったのである。
「早くおっしゃい。お祖父さんが怒っていらっしゃるんだよ。」
お民の声は鋭くなった。しかし見たこともない算盤について、とっさに適当な返事を見出すことは、さすがの次郎にも出来ないことであった。
と、いきなり次郎の頬っぺたにお民の手が飛んで来た。
「やっと正直に答えたかと思うと、まだお前はかくす気なんだね。何という煮え切らない子なんだろう。……ワシントンはね、……」
お民は声をふるわせた。そして、両手で次郎の襟をつかんで、めちゃくちゃにゆすぶった。
次郎はゆすぶられながら、干《ひ》からびた眼を据えて、一心にお民の顔を見つめていたが、
「ほんとうは、僕こわしたんじゃないよ。」
それを聞くと、お民は絶望的な叫び声をあげて、急に手を放した。そしてしばらく青い顔をして大きな息をしていたが、
「もう……もう……お前だけは私の手におえません!」
彼女の眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
恭一は心配そうに母の顔を見まもった。俊三はいつもに似ずおずおずして次郎の顔ばかり見ていた。次郎はぷいと立ち上って、一人でさっさと室を出て行ってしまった。
*
その日は土曜で、俊亮が帰って来る日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。
次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代る代るやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状した方がいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。
次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。
(何で俺は罪を被る気になったんだろう。)
彼はその折の気持が、さっぱり解らはくなっていた。そして、いつもの押し強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。――彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいこ
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