いつの間にかレグホンに向かって決死の闘いをいどんでいる。燃えるような鶏冠《とさか》の周囲に、地鶏は黄の、レグホンは白の、頸毛の円を描いて、三四寸の距離に相対峙《あいたいじ》している。
 向日葵《ひまわり》と白蓮《びゃくれん》とが、血を含んで陽の中にふるえているようだ。
 とうとう蹴合った。つづけざまに二回。しかし、二回とも地鶏の歩が悪かった。次郎は思わず腰をうかして「畜生!」と叫んだ。
 地鶏は、しかし、逃げようとはしなかった。やや間をおいて、白と黄の羽根が、三たび地上尺余の空に相|搏《う》った。今度は互角である。
 つづいて、四回、五回、六回と、蹴合《けあ》いは相変らず互角に進んだ。
 次郎は、息をとめ、拳を握りしめ、首を前につき出して、それを見まもった。
 闘いは次第に乱れて来た。最初まったく同時であった両者の跳躍が、いつの間にか交互になった。そしてお互に嘴《くちばし》で敵の鶏冠を噛むことに努力しはじめた。
 こうなると、若さが万事を決定する。レグホンの古びきった血液は、強烈な本能の匂いを溶《と》かしこんだ地鶏の血液に比して、はるかに循環が鈍《にぶ》い。彼の打撃はしばしば的をはずれた。地鶏が打撃を二度加える間に、彼は一度しか加えることが出来なくなった。そして、どうかすると、ひょろひょろと相手の股の下をくぐって、その打撃を避けた。
 老雄の自信はついにくだけた。
 彼は、黒ずんだ鶏冠に鮮血をにじませ、嘴を大きくあけたまま、ふらふらと築山の奥に逃げこんだ。
 若い地鶏は、勝に乗《じょう》じてそのあとを追ったが、やがて、築山の頂に立って大きな羽ばたきをした。そして牝鶏の群を見おろしながら、たかだかと喉笛《のどぶえ》を鳴らした。
 次郎はほっとして、立ち上った。
 そして大きく背伸びをしてから、そろそろと築山の陰にまわって見た。老英雄は、夢にも予期しなかったわかい反逆者のために、そのながい間の支配権を奪われて、ひっそりと垣根に身をよせている。
 築山の上では、地鶏がもう一度|勝鬨《かちどき》をあげた。それから、土を掻いて、くっくっと牝鶏を呼んだ。
 次郎は急に勇壮な気持になった。彼の体内には、冷たい血と熱い血とが力強く交流した。つづいて影のようなほほえみが、彼の顔を横ぎった。
 その夕方、彼は誰の迎えも受けないで、急に正木の祖父母に挨拶して、一人で自分の家に帰ったのである。

    一六 土橋

 次郎は、それ以来、学校の往復に俊三のお伴をすることを、断じて肯んじなかった。
 そのことについて母が何と言おうと、彼はろくに返事もしなかった。朝になると、わざとのように、みんなのいるまえを通って、一人でさっさと学校に行った。帰りには、きまって道草を食った。ただ以前とちがったところは、夕飯の時間までには、不思議なほどきちんと帰って来ることだった。
 しかも彼は、母や祖母に尻尾をおさえられるようなことをめったにしなくなった。彼は、父の前では相当喋りもし笑いもしたが、一たいに家庭では沈默がちであった。恭一や俊三に対してすら、自分の方から口を利くようなことはほとんどなかった。そして何かしら、すべてに自信あるもののごとく振舞った。それがお祖母さんの眼にはいよいよ憎らしく見えたのである。
 お民は、さすがに、お祖母さんよりもいくらか物を深く考えた。しかし、考えれば考えるほど、次郎をどうあしらっていいのか、さっぱり見当がつかなくなって来た。そして、おりおり俊亮にしみじみと相談を持ちかけるのだった。
「今のままでいいんだよ。お前たちは、どうもあれを疑《うたぐ》り過ぎていかん。」
 俊亮の返事はいつもこうだった。しかし、彼とても、次郎のほんとうの気持がわかっているわけではなかった。
 次郎の眼には、正木の家で見た若い地鶏が、いつもちらついていた。しかし彼は、機会を選ぶことを決して忘れなかった。めったなことで兄弟喧嘩をはじめて、また父に煙管でなぐられたりしてはつまらない、と思ったのである。その代り、これなら大丈夫だと思う機会さえ見つかれば、母や祖母がどんなに圧迫しようと、今度こそは死物狂いでやってみよう、という決心がついていた。
 ところで、そうなると、思うような機会はなかなかやって来ない。それに、誰もが、このごろの彼に対して、以前とはちがって警戒の眼を見張っている。恭一や俊三は、お祖母さんの差金《さしがね》もあって、めったに彼のそばによりつかない。みんなが遠巻きにして彼を見まもっているといったふうである。彼は多少手持無沙汰でもあり、癪でもあった。しかし、それならそれでいい、とも思った。そして相変らずむっつりしていた。
 梅の実が色づくころになった。
 彼は、例によって、学校の帰りに五六人の仲間と墓地で戦争ごっこをはじめていた。そこへ、おくれて馳せつけた
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