のである。
 彼は、とうとう、ある日学校の帰りに、地団駄ふんで泣いている俊三を放ったらかして、仲間の二三人と何処かに遊びに行ってしまった。
(父さんは、こんなことで、僕の頭を煙管でなぐりつけたりはしない。)
 彼は、遊びのあい間あい間に、そんなことを考えた。それでも、彼は、自分の家に帰るのが気まずかったとみえて、その日から、また正木の家に行って、しばらくそこから学校に通うことにした。

    一五 地鶏《じどり》

 ある日、次郎は、正木の家の庭石にただ一人腰を下して、一心に築山の方を見つめていた。
 築山のあたりには、鶏が六七羽、さっきからしきりに土をかいては餌《え》をあさっている。雄が二羽まじっているが、そのうちの一羽は、もうこの家に三四年も飼われている白色レグホンで、次郎の眼にもなじみがある。もう一羽はそれよりずっと若い、やっと一年ぐらいの地鶏である。その汚れのない黄褐色の羽毛が、ふっくらと体を包んで、いかにも元気らしく見える。
 ところで、この地鶏は、ぽつんと一羽、淋しそうに群を離れて立っている。おりおり頸をすっと伸ばして周囲を見まわし、それからそろそろと牝鶏の群に近づいて行くのであるが、すぐ老レグホンのために逐われてしまう。逐われる前に、ちょっと頸毛を逆立ててはみる。しかしどうも思い切って戦って見る決心がつかないらしい。
 が、そんなことを何度も繰り返しているうちに、地鶏の頸毛の立ち工合が、次第に勢いよくなって来た。次郎はそのたびに息をはずませては、もどかしがった。
 彼は、ふと、喜太郎の肉を噛み切った時のことを思い起した。そして、思い切ってやりさえすれば、わけはないのに、と思った。
 が、同時に、彼の心には、恭一や俊三と喧嘩をする時のことが浮かんで来て、腹が立った。
「次郎、お前は兄さんに手向かいをする気かい。」
 彼は母や祖母にいつもそう言われるので、つい手を引っこめてしまう。では、俊三になら遠慮なくかかっていけるかというと、そうもいかない。
「次郎、そんな小さな弟を相手に何です。負けておやりなさい。」
 と来る。どちらにしても次郎には都合がわるい。そして、何よりも次郎の癪に障るのは、彼が叱られて手を引っこめた瞬間に、きまって相手が一つか二つ撲《なぐ》りどくをして引きあげることである。祖母は、わざわざその撲りどくがすむのを待って、双方を引分けることにしているらしい。しかもぬけぬけと、
「もういい、もうそれで我慢しておやり。」
 などと言う。そんな時の次郎の無念さといったらない。彼は、自分の眼が、熔鉱炉《ようこうろ》のように熱くなり、涙が氷のように瞼にしみるのを覚えるのである。
(一人では学校にも行けない俊三ではないか。喜太郎の前では、口一つきけない恭一ではないか。僕は何でこの二人に負けてばかりいなければならないのだ。)
(母や祖母の小言が何だ。兄に手向かいするのが悪いなら、俊三が僕に手向かいするのを、なぜとめない。弟に負けてやるのが本当なら、恭一が僕を撲るのをなぜ叱らない。二人の言うことはいつもとんちんかんだ。それに二人は僕が損をしてさえいれば、いつもにこにこしている。僕が僕の好きなことをした時に、二人が嬉しそうな顔をしたことなんか、一度だってありゃしない。そして何かと言えば「氏《うじ》より育ち」と言う。何のことだかわかりゃしない。大方|乳母《ばあ》やを悪く言うつもりなんだろうが、乳母やは誰よりも正直だ。僕の好きなことは乳母やも好きだし、乳母やの好きなことは僕も好きだ。学校で一番になることだって、僕は決して嫌いではない。ただ面倒くさいだけなんだ。――一たい二人は僕をどうしようというのだろう。僕が家にいると、二口目には、この子さえいなかったら苦労はないが、と言う。だから僕はなるだけ家にはいないことにしているんだ。すると、今度は、なぜそんなに老人に心配をかけるのかとか、親の心がまだわからないのかとか、まるで、お寺の地獄の画に描いてある青鬼のような顔をして、呶鳴《どな》りつける。心配なんかせんでおけばいいじゃないか。一たい祖母や母が僕のために何を心配するというのだ。二人の気持は大てい僕にわかっている。わかっているから、僕はなるべく家にいない工面をしているのではないか。)
(学校の先生が修身で話してきかせることなんかも、半分は嘘らしい。第一、親の恩は海よりも深しなんて言うが、そんなことは、父にはあてはまるかも知れんが、母にはちっともあてはまらない。それに先生は、乳母やのようないい人のことを、ちっとも話してくれないのが不思議だ。学校で毎日毎日乳母やの顔を見ているくせに。)
 こんなことを考えながら、次郎はいつの間にか、視線を自分の足先に落していた。
 と、築山の方から、急に烈しい羽ばたきの音が聞え出した。見ると、地鶏が、
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