ような気がして、以前のように聞き流しにばかりはしておれなくなっていたのである。
「それに恭一は、もう五年だし、随分おそくまで学校でお勉強があるんです。だから、帰りに俊三をつれて来るのは、次郎の役目なんだよ。」
 お民の言うことはいよいよ変だった。次郎は、これはうっかりしては居れない、と思った。
「僕だって俊ちゃんよりおそいや、俊ちゃんは午までですむんだから。」
 咄嗟《とっさ》にいい口実が次郎の口をついて出た。そして、案外母もぼんやりだな、と内心で彼は思った。
「そりゃ解ってるさ。だから、なるだけ直吉を迎えにやることにしているんだよ。」
 次郎は「なるだけ」が少々気に食わなかったが、それならまず我慢が出来る、と思った。しかし、そのあとがいけなかった。
「だけど、直吉も忙しいんだからね。もしか迎えに行けなかったら、お前がつれて帰るんですよ。俊三はお前のお勉強がすむまで、校番室に待たして置くように、お浜にも話してあるんだから。」
 次郎は、それですっかりぺしゃんこになった。
 むろん彼は、母の矛盾に気がつかないことはなかった。
(僕が校番室に出入すると、あんなにやかましく言うくせに。)
 彼はそう考えたが、それを口に出して言おうとはしなかった。言えば藪蛇《やぶへび》だと思った。
 で、とうとう次郎は、翌日から、俊三の学校通いのお伴をすることになってしまった。手があいておれば迎えに来るはずの直吉は、ただの一度も来なかった。
 次郎の自由な天地は、それ以来ほとんど台なしになってしまった。彼は時間どおりに家を出て、時間どおりに家に帰ることを余儀なくされた。そして、家に帰ると、すぐ復習をさせられたり、用を言いつかったりした。お民としては思う壺で、いつも機嫌がよかった。しかし母の機嫌がよければよいほど、次郎の心は憂欝になっていった。
 それに、このことは、次郎に、もう一つ、ちがった意味で大きな苦痛を与えた。というのは、彼は元来ちび[#「ちび」に傍点]だったのである。体質なのか、食物のためなのか、或いは根性が強過ぎるためなのか、里子時代から、どうも彼の身長は思わしくのびなかった。学校に通い出してからは、肉付や血色はめきめきとよくなっていったが、身長だけは、同年輩のどの子供よりも低くて、体操ではいつもびりにならばされた。
 恭一を真《ま》ん中《なか》にして兄弟三人が並《なら》ぶと、まるで聖徳太子の画像を見るようだと、みんなが笑ったものだが、実際今では、次郎の身長は俊三と三分とちがっていないのである。
 むろん二人の着物は、同じ長さに裁《た》たれた。しかも大ていは同じ柄の飛白《かすり》であった。だから、二人は着物を取りちがえては、よく喧嘩をした。もっとも、喧嘩をしても、母や祖母は少しも困らなかった。というのは、汚れや綻《ほころ》びの多い方を次郎のだときめてしまえば、それで簡単に片がついたからである。
 むろん、この決定には、しばしば誤りがあった。しかし、誤りがあっても、そう決めて置く方が簡単であり、次郎の戒《いまし》めにもなると、二人は考えていたのである。
 着物の方は何とか諦めがつくとしても、毎日学校の往き帰りに、俊三と並んで歩かねばならないことは、次郎にとって、何としても我慢の出来ないことであった。実を言うと、彼はかなり以前から、自分のちびなことに気がついて、内心それを苦にしていた。それも、俊三と一緒でない場合にはさほどでもなかったが、この頃のように、いつも二人で並んで歩かなければならなくなると、まるで曝《さら》し物同然で、何だか身がすくむような気がするのである。しかも、村の小母さんたちは、彼のそんな気持などにはまるで無頓着に、
「まあ、お仲のいいこと。……そうして一緒に歩いておいでだと、どちらが兄さんだか、見分けがつかないようですわ。」
 などと言う。次郎にしてみると、これほどの侮辱はない。こんなことで兄弟が睦《むつま》じくなんかなれるものか、思う。
 彼は出来るだけ頭を真っ直にし、足を爪立てるようにして歩くことにつとめた。そして、硝子戸のある家の前を通る時には、いつも自分の影を覗いてみた。しかし、そんなことで、彼の自信が保てるわけのものではむろんなかった。
 で、結局彼は、出来るだけ俊三と離れて歩くことに決めた。これがまた一通りの苦心ではなかった。俊三は、そとでは妙に卑怯な性質で、いつも次郎にくっついて歩きたがった。それを次郎が嫌って無理に二、三間離れると、彼はすぐ地団駄《じだんだ》をふんで泣き出した。
 最初の一週間ほどは、それでも、次郎は母の言いつけをどうなり実行した。しかし、硝子戸にうつる自分の姿は、いつも皮肉に彼自身を嘲《あざけ》った。しかも、その間に、彼の「第三の世界」は、拒《こば》みがたい魅力をもって、たえす彼を手招きしていた
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