とはちがった感じのする父を、心に描きはじめた。彼は、親分という言葉の意味をはっきりとは知らなかったが、それが何となく、庄八によりも父にふさわしい言葉のように思えて来たのである。

    一四 ちび

 次郎は、学校に通い出してから、木登りが達者になり、石投げが上手になった。水泳にかけてはまるで河童同様であった。蜻蛉釣りや、鮒釣りや、鰌《どじょう》すくいに行くと、いつも仲間より獲物が多かった。そして真冬のほかは、大てい跣足のまま、何処へでも飛びあるいた。彼は学校に通ったために、文明人になるよりも、かえって自然人になるかのように思われた。
 復習などは、ほとんど彼の念頭になかった。彼の教科書は、手垢で真っ黒になっており、頁がところどころちぎれたりしていたが、それは彼の勉強の結果ではなくて、学校の往き帰りに、意味もなく放り投げたり、なぐり合いに使ったりするからであった。
 もし、母がおりおり恭一のぴんとした教科書と、彼のくちゃくちゃの教科書とを、彼の目の前にならべて、彼に厳《きび》しい訓戒を加えることがなかったら、彼はもっといろいろのことに、彼の教科書を利用したかも知れなかった。
 それでも、彼の成績は決して悪い方ではなかった。五十幾人かの組で、彼はいつも五番以下には下らなかった。もし研一という、図抜けて優秀な子供さえいなかったら、彼が一番になるのも大してむずかしいことではなかったであろう。
 もっとも、操行は大てい乙で、一度などは丙をつけられたこともあった。その時には、さすがの彼も、気がひけたとみえて、通信薄のその部分を指先で擦《す》り剥《は》がして、家に持って帰ったのだった。
 それを見て、腹を立てたのは、母よりも、むしろ父であった。父はいきなり持っていた煙管《きせる》で次郎の頭をひどくなぐりつけた。
 お浜は通信簿が渡される日には、きまって卵焼をこさえて、次郎を校番室に迎えた。しかし、そのおりの、彼女の顔付は、いつも、あまり愉快そうではなかった。
「恭ちゃんはいつも一番なのに、次郎ちゃんはどうしたんです。」
 これが、次郎が卵焼を食べ終ったあと、きまってお浜の口をもれる小言であった。
 この小言は、ふだんにもしばしば校番室で繰り返された。次郎は、最初のうちはすまないような気もしていたが、たび重なるにつれて、次第にうるさくなって来た。そして彼が校番室に出入することも、そのためにだんだん少くなっていった。
 もっとも、彼が校番室に遠ざかるようになったのは、決してそれだけの理由からではなかった。今では、彼は全く色合の異った三つの世界をもっている。その第一は、母や祖母の気持で生み出される世界、その第二は、お浜や父や正木一家に取り巻かれている世界、そして、その第三は、彼が、入学以来、彼自身の力で開拓して来た仲間の世界である。この第三の世界は、新鮮で、自由で、いつも彼を夢中にさせた。彼が第二の世界を十分に愛しつつも、第三の世界のために、より多くの時間を割《さ》くようになったのに、不思議はなかった。
 とも角も、彼はこうして二年に進み、三年に進んだ。
 彼の生活は日一日と多忙になった。そして多忙になればなるほど、彼の幸福な時間はそれだけ拡がっていった。時としては、拡がりすぎてかえって彼を不幸にすることすらあった。というのは、何処の家庭でも、子供が学校道具を持ったまま、暗くなるまで遊び暮して家に帰って来た場合、夕飯を食べさせないくらいのことはするのだから。
 ところで、彼が三年に進級すると同時に、彼がせっかく二年越しで開拓して来た自由の天地に、大きなひびの入る事情が生じた。それは弟の俊三が一年に入学したことである。
 お民は、俊三の入学式をすまして帰って来ると、すぐ恭一と次郎を呼んで、昔、毛利元就《もうりもとなり》が子供たちに矢を折らしたという逸話を、如何にも勿体《もったい》らしく話して聞かした。そして、
「明日からは、三人そろって学校に行くんですよ、俊三ははじめてだから、二人でよく気をつけてね。」と念を押した。
 次郎にとっては、しかし、それはどうでもいい話であった。彼は、俊三の世話を焼くのは恭一の役目だ、と思ったのである。
(それにしても、僕が学校にあがった頃は、どんなだったかしら。どうも僕には、恭ちゃんに世話を焼いてもらった覚えなんかないのだが。)
 彼は、ぽかんとして窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。するとお民が言った。
「次郎、お前はよそ見ばかりしているが、お母さんの言うことがわかったのかい。お前こそすぐの兄さんだから、今度は恭一よりお前の方が気をつけてやるんですよ。」
 次郎は変な気がした。何が「今度は」だと思った。「すぐの兄さん」だから一体どうだというんだ、とも思った。彼は、この頃、母の言うことがとかく理窟にあわない
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