と彼は思った。
お民――「校番室なんかで、お鶴と遊ばしたりするからいけないんだよ。」
俊亮――「とにかく、もうすんだことだ。」
お民――「でも庄八は、こちらから相当の挨拶をしなければ、今夜にも自分で出かけて来るとか言ってるそうです。」
俊亮――「来たっていいじゃないか。向こうからも一応は挨拶に来るのが当然だからね。」
お民――「でもそれじゃ、事が面倒ですわ。」
俊亮――「なあに、何でもないよ。俺がよく話してやる。」
お浜――「そりゃ旦那様におっしゃっていただけば、庄さんも納得するとは思いますが、何しろあれほどの傷ですし、やはり坊ちゃんのためには、一応はさっぱりなすった方が……」
俊亮――「次郎のためを思うから、俺はそんなことをしたくないんだ。お前たちは、相手の傷のことばかり気にしているが、次郎としては、命がけでやった反抗なんだ。自分よりも強い無法者に対しては、あれより外に手はなかろうじゃないか。あいつの折角の正しい勇気を、金まで出して、台なしにする必要が何処にあるんだ。」
俊亮の語気は、いつもに似ず熱していた。次郎には、その意味がよく呑みこめなかった。しかし、自分のしたことを父が悪く思っていないことだけは、はっきりした。
お民――「そんなことをおっしゃったんでは、次郎は、この先いよいよ乱暴者になってしまいますわ。」
俊亮――「まさか、俺も、次郎の前でけしかけるようなことは言わんつもりだよ。あいつを闘犬に仕立てるつもりじゃないからな。」
お浜――「まあ。」
お民――「すぐ宅はあれなんだよ。冗談だか本気だかわかりゃしない。」
俊亮――「とにかく心配するなよ。」
お浜――「でも、坊ちゃんは、これから学校に行くのを嫌がりはなさいませんでしょうか。」
俊亮――「馬鹿な! 万一そんなだったら、庄八の家に小僧に出してやるまでさ。」
お民もお浜もつい吹き出してしまった。しかし、その言葉は、陰で聞いていた次郎の胸には、ぴんと響くものがあった。
次郎は、そのあと、父から一応の訓戒をうけて、九時ごろ寝た。――訓戒といっても、母のそれとはまるでちがっていた。
「正しいと思ったら、どんな強い者にも負けるな。しかし犬みたいに噛みつくのはもうこれからは止せ。」
これが父の訓戒の要点であった。
次郎は、庄八がいつやって来るかと、多少気にかかりながらも、寝床にはいると、間もなく眠ってしまった。
それからどのくらいの時間がたったか、ふと、彼は茶の間から聞えて来る大きな声で目をさました。
「じゃ、何ですかい、小さい者が大きい者に向かってなら、どんな乱暴をしたって構わんとおっしゃるんですかい。」
「そうじゃないのさ。さっきからあれほど言っているのに、まだ解らんかね。」
「解りませんね。旦那のような学者のおっしゃるこたあ。」
「じゃ訊ねるが、もし次郎が噛みつかなかったとしたら、一体どうなっているんだい。」
「どうもなりゃしませんさ。」
「どうもならんことがあるものか。あいつは年じゅう喜太郎にいじめられ通しということになるだろう。傷がつかない程度にね。……一体、膝坊主を少しばかり噛み切られるのと、一生卑怯者にされるのと、どちらがみじめだか、よく考えてみてくれ。お前も親分と言われるほどの男だ、これぐらいの道理がわからんこともあるまい。」
庄八は何か答えたらしかったが、急に声が低くなって、次郎にはよく聞き取れなかった。
「そりゃ、梅干ほどの肉がちぎれているとすると、親としては腹も立つだろう。俺も、次郎が犬みたいな真似をしたことを、決していいとは思わん。」
また犬だ。次郎は口のあたりを手のひらでそっとなでてみた。
「そこで、実を言うと、俺も最初は、何とか挨拶に色をつけなきゃなるまいと思っていたところだ。が、だんだん話を聞いているうちに、お前の方で、こちらからそうした挨拶をしないと承知しない、とか言っていることがわかったんだ。……いや、それもいい。そういう要求も別に悪いとは言わん。しかし、万一にもそのことが、お前んとこの喜太郎にわかり、それから次郎にもわかったとしたら、いったいどうなるんだ。……ねえ庄八、お互に子供だけは、金でごまかせない男らしい人間に育て上げようじゃないか。」
「いや、よくわかりました。」
「そこでだ、お前に、もし金が要るんだったら、今度のことに絡《から》まないで、話してくれ。金は金、今度のことは今度のこと、そこをはっきりして、これからもつき合っていこうじゃないか。」
「面目《めんぼく》ございません。ついけちな考えを起しまして。」
「わかってくれてありがたい。……おい、お民、酒を一本つけておくれ。」
次郎の緊張が急にゆるんだ。そして、明日からの毎日が、これまでよりも、ぐっと力強くなるような気がして、存分に手をのばした。同時に彼は、昨日までの父
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