奥さん、どうなさいますので……」
 そう言って、爺さんは蚊帳の中からのそのそと出て来た。そして次郎にたかって来る蚊を、団扇でおってやった。
 戸外の縁台からは、お浜のあとについて、お作婆さんや、勘作や、お兼や、お鶴が、ぞろぞろと這入って来た。みんな土間に突っ立ったまま、默りこくってお民と次郎とを見くらべている。その中で、お浜の眼だけが、かなり険しく光っていた。ほかの人達は、ただあっけにとられたといったふうであった。
 それからお民は、女教師のような口吻で、何やらながながと次郎に話して聞かした。しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も這入らなかった。彼は、その間、お浜の表情だけを、注意深く窺《うかが》っていた。その表情から、彼は彼女が本当に自分を実家に帰してしまう気でいるかを読みたかったのである。しかしお浜の眼は、険しく光って、じろじろと彼とお民とを見くらべているだけで、彼には何の暗示も与えなかった。
「わかったね。」
 と、お民は、長い説教のあとで、念を押すように言った。次郎はそれに対して、無表情にうなずいた。
 彼は心の中で、この時、自分の眼の前に二人の敵を見ていたのである。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」
 正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。
 次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。
「偉いね。」
 と、正面の敵が言った。
 次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。
 その間に、お民は提灯《ちょうちん》に火を入れた。
 二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。
「坊ちゃん、さようなら。」
 次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。
「怖かあないかい。」
 一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左
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