なかったろうかと、それを後悔しているくらいであった。
 ことに、飯米欲しさに次郎を手放さない、などと言われることは、彼女の気性として、我慢の出来ないことであった。そんな時には、ついかっ[#「かっ」に傍点]となって、次郎を、使いに来た人の方に無理に押しやるような真似をすることさえあった。しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、いつもそのままになってしまうのであった。
 ところが、ある晩だしぬけに、お民自身が迎えにやって来た。これはお浜も全く予期しなかったことであった。
 次郎は、その時、もう寝床に這入っていた。真夏のころで、寝床といっても、茣蓙《ござ》一枚だった。むれ臭い蚊帳のそとでは、蚊が物すごい唸《うな》りを立てていた。
 次郎のそばには校番の弥作《やさく》爺さんが寝ていた。――爺さんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎は、この頃、お浜のそばよりも、爺さんのそばに寝るのが好きになっていたのである。
 爺さんは、ゆっくりゆっくり話をすすめながら、おりおり大きな欠伸《あくび》をした。すると、そのたんびに、しょぼしょぼした眼尻から、ねばっこい涙がたらたらと流れ出して、耳の方にはっていった。次郎は、指先で、自分の好きな方向に、涙に道をつけてやるのが、また一つの楽しみであった。
 その楽しみの最中に、お民がやって来たのである。
 彼女は中には這入って来なかった。しかし、次郎は、声を聞いただけで、すぐそれが誰だか、そして何の用で来たかが、はっきりわかった。彼は小さい胸をどきつかせながら、眠ったふりをして耳をすました。
 話し声は、戸外の縁台から、団扇《うちわ》の音にまじって聞えて来る。
「そりゃ、私だって、今では一日も早くおかえししたい、とは思っていますが……」
 お浜の声である。
「やっぱり帰ろうとは言わないのかい。」
「ええ、ちょいと門を出るのでさえ、このごろでは、おずおずしていらっしゃるようで、そりゃおかわいそうなんですの。」
「でも、私から、じかに言って聞かしたら、納得《なっとく》しないわけはないと思うのだがね。」
「そうだと結構でございますが……」
「親身の親が言ってきかしても、駄目だとお言いなのかい。」
 と、少しとげのあるものの言いかたである。それが次郎にもよくわかる。
「そりゃ、仕方がございませんわ。」
 お浜の突っ張る声。次郎
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