角に、大して親しみもない直吉によって、運び去られようとするのである。これは次郎にとっては、全く思いがけない出来事であった。
 直吉の肩の上で、彼の小さな胸はどきどきし出した。
「いやあよ、いやあよ、あっちだい。」
 彼は、彼の両手で、直吉の顔をうしろの方にねじ向けようとした。しかし、直吉の顔は、頑《がん》として南の方を向いたきりで、どうにもならなかった。どうにもならないどころか、直吉の足は、かえってそのために、一層速くなる傾向《けいこう》さえあった。
 次郎はしくしく泣き出した。泣き出しても、直吉は一向平気らしかった。彼はずんずん南の方にあるくだけで、口一つ利《き》こうとしない。次郎は泣きながらうしろを振りかえった。学校の建物が夕暮の光の中に、一歩一歩と遠ざかっていくのが、たまらなく淋しい。
 こうなると、次郎はあきらめてしまうか、戦うか、二つに一つを選ばなければならなかった。彼は決然として後者を選んだ。――元来《がんらい》、次郎の勇気は学校との距離に反比例し、実家との距離に正比例することになっていたので、戦うならなるべく早い方が歩《ぶ》がよかったのである。
 なお、彼が肩車に乗っていたことも、彼にとっては、有利な条件だった。それは、直吉の髪の毛や耳朶《みみたぶ》を、自由に掴むことが出来たからである。しかも幸いなことには、直吉の髪の毛は相当長かった。彼は早速髪の毛をむしることにした。
「痛いっ。」
 直吉は頓狂《とんきょう》に呼んだ。しかし、彼の歩いて行く方向は、依然として変らない。従って、次郎の進む方向にも一向変化がないのである。
 今度は思い切って耳朶をつかんだ。少々すべっこくて、頼りない感じがする。次郎は総身の力をその小さな爪先にこめて、直吉の耳朶をもみくちゃにした。
「ひいっ、畜生っ。」
 直吉は悲鳴をあげた。同時に、今まで次郎の足にかけていた両手を思わず放してしまった。
 とたんに次郎の体はうしろの方にぐらついた。次郎の十本の指は、直吉の耳朶をつかんだままだったが、彼の体の重みを支えるには少し弱すぎたらしく、次の瞬間には、彼の体は、砂利《じゃり》で固まった路の上に、ほとんどまっさかさまに落っこちた。
 彼は、後頭部と肩のあたりに花火が爆発したような震動《しんどう》を感じて、ぼうっとなった。しかし、この瞬間は彼にとって大事な一瞬であった。彼は毬《まり》が弾《
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