までもない。彼はそんな時には、きまって、恐ろしい沈默家になり、小食家になり、おまけに不安から来る寝小便をすらもらしたのであった。
 彼にとっては、第一、家があまり広すぎた。狭っくるしい部屋の中で、むせるような生活をしなれて来た彼は、こんな広い家に這入ると、急にすべての人間が自分から遠のいてしまうような気がして、妙な肌《はだ》寒さを感じた。お浜がそばについている間ですらそうであったのに、まして、彼女がこっそり姿を消してしまったあとの頼りなさといったらなかったのである。
 むろん、お浜が去ったあとでは、お民をはじめ、みんなで彼を取りまいて、いろいろと言葉をかけてくれた。しかしそれらの言葉は、彼の耳には、学校の先生が教壇の上からものを言っているようにきこえて、何だか身がすくむようだった。とりわけお民の言葉にはそんな調子がひどかった。お民としてはそれはやむを得ないことだったかも知れない。というのは、彼女は、こんご次郎の悪癖を矯《た》め、彼に上品な礼儀を教えこむという、母として重大な責務を負っていたのだから。
 恭一は大して恐い兄とは思えなかった。しかし、その生《なま》白い顔と、いやにしとやかな動作とが、どうも次郎にしっくりしなかった。弟の俊三《しゅんぞう》はまだ生まれて三年たらずではあったが、末っ子で、はじめから母の乳房《ちぶさ》で育ったためか、誰に対しても無遠慮な振舞いがあり、次郎の眼には、彼こそ第一の強敵のように映った。
 祖父と父とは、遠くから冷やかに彼を眺めている、といったふうであった。祖母は馬鹿に彼にちやほやするかと思うと、すぐ突っけんどんになった。
 こんなふうで、彼の実家はどんな角度から見ても、彼にとって愉快なものではなかった。で、彼がお浜に置き去りを食ったあと、沈默家になり、小食家になり、寝小便をもらすのは余儀ない次第であった。いわばそれは彼の自衛本能《じえいほんのう》ともいうべきものだったのである。そして、この本能の命令に従うことは、いつも事柄を次郎の有利なように展開させたというのは、彼は結局家中の者にもてあまされて、再びお浜の手に引き渡されることになったからである。
 次郎は最近二十日あまりも寝小便もたらさないで、お浜の許《もと》に落ちついていた。そしてそろそろ実家の記憶もうすらぎかけたところであった。ところが、今日はだしぬけに、お浜と一緒ですら嫌いな方
前へ 次へ
全166ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング