すめたのである。
 お鶴には、次郎が何でそんなことをするのかわからなかった。で、彼女は相変らずお玉杓子を頬にくっつけたまま、きょとんとして次郎の顔をみつめた。
 お兼は、藪睨みの眼を一層藪睨みにして「ひっひっ」と次郎のうしろで笑った。
 次郎は、その笑い声をきくと、何か非常に悪いことでもしたように思って、きまり悪くなった。ところで、男の子供というものは、きまり悪くなると、時として、妙に乱暴な気分になるものである。彼は急に立ち上って、あたりにあるままごと道具を、めちゃくちゃに足で蹴ちらしはじめた。
 お兼がまた「ひっひっ」と笑った。
 すると、次郎は何と思ったのか、今度はいきなりお鶴の方に飛びかかって行って、お玉杓子のくっついている頬をぬじ切るようにつねり上げたのである。
 お鶴は火がつくように泣き出した。
「父っちゃん」と、お兼は金切声をあげて、校番室の方に走り出した。そして、それから一二分の後には、次郎の両手は、勘作の木の根のような掌《てのひら》の中に、しっかりと握りしめられていたのである。
「何しやがるんだい、こいつ。」と、勘作の怒った声。
 同時に、次郎の体は、乱暴《らんぼう》に宙につり上げられた。手首と肩のつけ根とが無性に痛い。
 次郎は、それでも、泣き声を立てなかった。彼は両足をばたばたさせながら、めちゃくちゃに勘作の下腹を蹴《け》った。
「この餓鬼《がき》め。」
 次郎は、いきなりうつ伏せに地べたに放り出された。掌と、唇と、鼻柱と、膝頭とが、その瞬間に、打ちくだかれたような痛みを覚えた。彼は四五秒の間突っ伏したまま、身じろぎもしなかったが、次の瞬間には、地の底で鵞鳥《がちょう》が縮め殺されるような泣き声を立てた。
 お鶴も仰向《あおむ》けになってまだ泣いていたが、次郎の泣き声を聞くと、一層大きな声を出して泣いた。そしてそれから二人はせり合うように、代る代る泣き声をはり上げた。
 勘作は突っ立ったままじっと次郎を睨めつけていた。
「どうしたんだね。」と、そこへお浜が掃除をしていたらしく、竹箒を持ったままやって来た。
「何だか知らねえが、こいつ、お鶴の頬ぺたを、ひどくつねっていやがったんでね。」
「それでお前さんは、坊ちゃんをなげとばしたとお言いなのかい。」
「そうだよ。」
「そうだよもないもんだ。たかが子供の喧嘩じゃないかね。仕事なしだとは言いながら、大の
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