「と云ふのは、吾輩の意見である、其の後、印度の方では、密教は、ます/\流布し西藏の佛教史家「ダーラナトハ」に據れば、西暦紀元八百四十年の頃、恰も弘法大師が歸朝後四十年後に、今の孟加拉《ベンゴール》地方に王朝を建てた「パーラ」王朝などの時代には、非常の隆盛を極はめたと云ふことである、たゞに唐代ばかりでない、宋の時代でも、印度では、密教の流布が盛んであつたと見えて、印度から支那へ來た譯師は、大抵、密教の高僧で、西暦一千〇一年から一千〇三十年|鶴悉那《グワズニ》の「マームード」が、疾※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1−94−8]の如く、印度の西北部を荒らして廻はるときなどは、支那の方へ印度から、逃れて來た密教の高僧が甚だ多かつた、つまり、印度から支那へ打寄せた密教の波は、隋唐以前からもあつたが、其の最高潮に達した時代は、唐の玄宗皇帝の時代から始まり、武宗皇帝の會昌年間に及ぶ間で、密教の教徒は、善無畏三藏や、金剛智三藏、不空三藏の功を多とせねばならぬ、此の密教が、最高潮に達し、事實上、大唐天子の宗教となつた時代に大師が入唐せられたのである、惠果阿闍梨が、大師を見て、我先知汝來、相待久矣と云つて笑を含んで喜ばれたと、大師が、請來目録の序に書かれてあるが、惠果の云はれた意味は種々に解釋出來る、例へば、大師が徳宗皇帝の貞元二十年の臘月に長安城に入られて、惠果に見えられたは、翌年の春であるから、惠果が、大師の入城のことを、前から傳聞して知つて居つたと云はれたつもりか、それとも、大師が日本に居つた時から、入唐の志があつて、其の志は交通不便の時代とは云へ兩國の高僧名僧が、互に其の名聲を傳聞し得た時代であるから、或は、惠果が大師の入唐すべきを豫め知つて居つて、心待ちに居られたとも解釋出來るが、又何事も支那の弟子分の國の一である日本からは、從來、法相宗を學びに來た、律宗をとりに來た、三論も、華嚴も、持つて往つたに、三論や華嚴の極致とも云ふべき、密教が、現に大唐天子の歸依する所となり、支那に隆盛を極めて居るに、日本からは、一向これを學びに來ないとは、如何した譯であらうと、不審を抱かれて、誰か來さうなものと思つて、心待ちに待つて居られたときに、大師が、來られたから、我先知汝來、相待久矣と云はれたとも解釋が出來る、此の解釋によると惠果の所謂汝とは必ずしも、大師自身に限らない、何人でも、密教の修行者と、云ふ意味になるから、或は眞言宗の方々には、曲解であると思はるゝことであらうが、私は、大師の時代から推して、寧ろ、最後の意味に解釋したいのである大師が惠果の會下につきて、始めて灌頂壇に上つたのは長安に入つてから、僅に六ヶ月後である、して見ると、六ヶ月間に、會話などは、すこしも差支なかつたと見える、今日の日本に於ける英語獨逸語の學者は、日本で充分の素養のある人でも、其の國に留學六ヶ月間にして、會話に差支へなくなるには、非常の努力を要する、中には、一年もかゝつて、まだ滿足に出來ぬ人が多い、大師當時の日本の大學では、支那語の教授法は甚だ有効であつたやうに思はれる。
大師が、惠果の學法灌頂壇に上り、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで、花を抛ち、偶然、眞中にある毘盧遮那如來の身上に中てられた、これは、不空三藏が、金剛智三藏に就きて、弟子となつたときも、金剛界大曼荼羅に對し此の抛花の法を行つて居りますが、これによりて、師の金剛智が、不空の人物を試驗し得て、他日大に教法を興すべき人であることを知りましたことは、宋高僧傳に見えて居ります、惠果も、大師に對して、同一の試驗を二回せられたのである、然るに二回とも、毘盧遮那佛の本體に花を中てたので、二ヶ月以内に傳法阿闍梨の位に上るべき、灌頂を受けられたのであるが、俊英の士が明師に遇ふた程、世の中に幸福なものはないと思ふ、しかし、これによりて、大師の身には、大唐天子の歸依する密教を、扶桑の東に傳へねばならぬと云ふ責任が、懸つたのである、身は、物外の一沙門であるも、法は、當時東方亞細亞に流布して、大唐天子すら歸依せられて居る法である、從つてこれを日本に傳ふるにしても、匹夫匹婦にのみ傳ふべきでない、閭巷の小人、隴畝の野人にのみ傳へて、甘んずべきではない、かくのごとくんば、惠果和尚の寄託に辜負する次第であり、又遠くは、金剛智三藏や、不空三藏の法統たるに耻づる次第である、苟も責任を解し、師恩の渥きに感謝することの出來る人は、必ず、傳燈阿闍梨の位に上られた大師の双肩には當時、萬鈞の重石が懸かつた感をせぬものはあるまいと私は思ふ、私かに大師當時の御心事を想見するに、是非とも、此の法を日本に傳へて、上は、日本の、天皇陛下から、下は、萬民に及ぶまで、此の法の歸依者となして、日本の國家の鎭護としたいものであると思はれたに相違ない、又惠果自身が、大師に對し、期待した所は、實に此の點にあるのである、現に臨終の遺言にも、義明供奉、此處而傳、汝其行矣、傳之東國と云はれて居る、たゞに惠果の期待したのみならず、傳法阿闍梨の位に上つたとき、その齋莚に列した青龍寺や、大興善寺などの、五百の大徳は、皆これを期待したのである。
しかし、飜つて、日本を見れば、奈良の諸大寺には、倶舍や法相の碩學が居る、三論や華嚴の龍象が居る、最澄も居る、此の中には朝廷に立つて居る人々と、綢繆※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]縁して居るものもある由來、草莽の微衷が、天門の上に達することの難きは、昔も今も同じことで大師が歸朝後、直ちに、請來の經卷を上つて、密教のことを申し上げたが、平城天皇は、あまり、留意せられたらしくない、歸朝後第五年目に至つて、平城帝が退隱せられ、御代が代はつたから、弘仁元年十月二十七日の日附を以て、國家の爲に修法せんことを請はれた上書が、性靈集に見えてあるが、其の中には、大唐天子の例を援引して、宮中則捨長生殿、爲内道塲、復毎七日、令解念誦僧等持念修行、城中城外亦建鎭國念誦道塲、佛國風範亦復如是と云はれて、日本も又唐朝の例に倣ふべきことを主張して居られる、是れ實に大師の衷情から出た主張である、又恐らく、入唐の上密教を傳へられた素懷であると信ずる、それから、七年を經て、弘仁七年十月十四日の日附で以て、嵯峨天皇の、御乖豫を祈誓せられて、神水一瓶に藥石を添へて進献した表啓がある、かくのごとく、寸進尺進、徐々として、密教の根柢を宮廷の中に扶植せられて居るが、又承和元年即ち大師の入寂以前に先つ僅に一年に至りて、宮中の一室を莊嚴して、眞言を持誦することを恒例となすと云ふ敕允が、出た、それまでは、大師の苦心は、御一生を通じて、眞に想見に餘あるものと云つてよい、大師の遺弟たるものは、今日を以て、昔日を推して、大師の御一生は、芝居で見るやうに、始から、六方を踏んで、花見から出てくるやうに見るは、是れ、眞に大師の性格を領解したものと云へぬ、大師の歸朝後の生涯は、法の爲め、國の爲め、身命を惜まなかつた歴史で、况んや、朝に立つて、從來の入唐求法の高僧の如く、寵榮を趁うて、奔走するなどの事は、なかつたのである、奈良の連中が、最澄と喧譁をしたり、動もすれば、情誼上、大師も孰れへか卷き込まれさうであつたが、大師が、中立の状態に居られたは、畢竟、世榮に冷淡な故であつて、奈良の連中と、屡々來往したやうに見受くるは、舊友も多かつた上に、眞言の學問は、三論法相の學問を基礎として居るからと私は認める、現に御遺告二十五箇條の第十二に此の事が出てある。
又善く世人に問はるゝ事であるが、大師は、梵語を知つて居られたか否やと云ふ問題であるが、梵字梵語を講習せずして、眞言密教は、完全に領解出來るものでなく、又不空三藏の上足の弟子たる惠果が、梵字梵語を知らなかつた大師を傳燈阿闍梨の位に上すとは思へぬが、世人の中には、往々、かゝる疑問をなすものあるから、私は、茲に説明したいと思ふ、大師は、立派に梵語はやられたので、御請來目録の序中に、梵字梵讃間以學之、と記せられて居る間[#「間」に白丸傍点]とは、大師謙讓せられた言で、當時梵學の研究が、中々盛大であり、斯學の才俊が多く居つた唐の長安に入りて、大師たるものは、如何にして、此の必要學科を等閑視することがあり得べきか、畢竟、講習日淺く、長安の才俊に比すれば、大師自身が、劣ると思はれたから、間[#「間」に白丸傍点]の字を入れられたまでゝ、講習日淺かつたにしろ、今日の學生の樣に、五年六年とかゝつて、だらしなくやつたのでないから、大師の梵學上の著述あり、意見なりを見ると、一點の誤謬はない、例を擧ぐれば、いくらもあるが、先づ十住心論の卷第七から引用します、文殊自證眞言であるが、
[#天から1字下げ]He《ヘー》 He《ヘー》 〔Kuma_raka〕《クマーラカ》 vimukti《※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ムクテイ》−|patha《パトハ》−|sthita《ストヒタ》 smara《スマラ》 smara《スマラ》 〔pratijn~a_m〕《プラテイヂユナーム》.
 大師の解釋には、醯醯《ヘーヘー》是呼召なりとある、印度で人を呼ぶときの感投詞は、「ヘー」「ヘー」と云ふので、日本では「オーイ」「オーイ」と云ふやうなものである、是れ呼召即ち人を呼び召すときに使用するのである、倶摩羅迦、是童子、即是呼召令憶本願とあるは、「クマーラカ」「童子よ」と云ふときの形である、眦目乞底鉢他悉體多、解脱道住、請呼此童子住於解脱道者、とある、これ又宜しい、「※[#濁音付き片仮名ヰ、1−7−83]ムクテイ」とは解脱の義である、「パトハ」は、途の義で、「ストヒタ」は、「立ちたる」と云ふ形容詞で、「クマーラカ」を形容して居る語である大師の所謂解脱道住の云々は、即ち、此の三語が、前の「クマーラカ」にかゝつてゐることを云ふたのである、解脱の途に住する、童子よと云ふ義に解すればよい。
「スマラ」「スマラ」を、憶念憶念と大師が解釋せられたは、「憶念せよ」「憶念せよ」の命令法に用ひたことを云つたのである、「プラィヂュナーム」は先所立所願と解釋せられたのは、又正しい、此の語は「誓約を」と云ふ義である、だから、全體の意味は「ヘー」「ヘー」已に解脱の途に安住する童子よ、さきに誓つた約束を忘れずに憶念せよと云ふにあるので、大師は、醯々童子住解脱道者、憶念本所立願とあるは、一點の非難の打ちやうのない解釋である、しかし、吾輩がかく云ふは、普通の梵語學の見地から云ふので、大師は、已にこれを指摘して、此眞言の淺略であると云うて居る、又、一應何人にも明白な義であるから、顯義だと云はれて居る、かゝることは、大師は、已に十分に承知せられて、其の上に更らに、吾々には了解の出來ぬが、確に古代印度の密教の行者から傳へたと見るべき密教的解釋を加へて居る、倶摩羅迦(〔Kuma_raka〕)の語を分析して倶(Ku)は摧破之義、摩羅[#「摩羅」は底本では「魔羅」](〔ma_ra〕)は是四魔五眷屬、此眞言以魔字爲體、即是大空之義、證此大空摧壞一切魔也とせられたは、是れは、密教的解釋で、即ち、眞言宗に獨得な説明法である、世人は單にこの解釋と違つて居るのを見てかれこれ云ふのであるが、大師は普通の解釋は、充分承知して、更らに、密教の上から見た解釋を加へて居ることを忘れてはならぬ、又十住心論の卷の四に、大日經の聲聞の眞言を引用してあるが、
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〔Hetu−pratyaya−vigata Karma−nirja_ta hu_m〕[#最後のmは上ドット付き] とある、是れは、常情から解すれば「因縁より離れ、業より免れたるものよ」と解釋すべきものと思ふが、大師は、これに密教的解釋を下して
[#ここで字下げ終わり]
初醯字(He)有訶聲(h)是行是喜、即聲聞行、有伊聲(e)即聲聞三昧也、次覩字 tu' 有多聲(t)即聲聞所入如々也、有※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]聲(u)三昧也、次有鉢字(pa)聲聞所見第一義諦、帶羅字(ra)即小乘所離六塵、帝也(tya)乘如之義也、是聲聞所乘之乘、※[#「田+比」、第3水準1−
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