=|pota−varman[#simhaのmは上ドット付き] と云ふがある、西暦紀元七百年頃に王位に即て居る、Pallava《パルラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》 種族の王である、又不空三藏が開元二十九年西暦七百四十一年に唐から、印度に赴く途次に、師子嶋即ち、今日の錫蘭嶋に寄泊した時、國王の※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]待を蒙りた事が、宋高僧傳に見えてますが、其の時には、明に錫蘭には密教が流布していたことが、載せてある、又其の時の國王の名前は、見えて居りませぬが、三藏が、五印度の周遊を畢つて、歸途又錫蘭に立ち寄られたとき、國王尸羅迷伽の表を、ことづかつて、天寶五載即ち西暦紀元七百四十六年に長安に歸られて居るが、其の尸羅迷伽と云ふ名は確に 〔C,ila〕《シーラ》−|megha《メグハ》 と云ふ語の音譯で、戒雲と云ふ意味である、さて此の王の名が、錫蘭の歴史の「マハー※[#濁音付き片仮名ワ、1−7−82]ンサ」に、出て居らぬかと、檢べて見ますと、恰も、西暦七百四十一年から、七百八十一年に亘り、師子國王の表の、第九十四代に當りて、Agga−bodhi 第六世と云ふがありまして、其の名は梵語ならば、Agra−bodhi(無上智)と申しまするが、名が、已に密教の名らしく思はれる、今一つの名は、即ち尸羅迷伽《シーラメグハ》であります、一人で二つ名があるは、可笑しいが、一は本名即ち諱で、一は字で、印度の國王は、澤山字のある王があります、臣下が王に對しては、諱即ち本名は呼ばぬ、字を呼ぶは、支那と同じことで、不空三藏の時代の王は、「シーラ、メグハ」の字を以て居つたことが、明白である、今日の西洋の佛教學者は、錫蘭嶋に傳へた佛教の經典を以て、最も原始佛教に近い佛教の經典であると信じて居る方々があるが、かゝる學者に、錫蘭島にも曾つて、密教が傳はり流布したことがあると云つたら、驚くだらうが、事實は、如何ともし難い、師子嶋には確に密教が一時流布したのである、觀音勢至が祭つられた時代があつた、獨り錫蘭嶋のみでない、爪哇「スマトラ」、「ボルネオ」等、南洋一帶の地で、印度と支那との通商の航海をなすに當り、其の中間の寄泊地となつた地方には、密教が、流布して居たのである、不空三藏が、金剛智三藏に出合つて、拜して師事したのも闍婆《ヂヤ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》即ち、今の爪哇である、今日にても、南洋に觀光釆風の客は、爪哇の「ボロ、ブヅール」や、其の傍近の「チヤンデイ、メンヅト」(Boro−budur−chandi−mendut)の寺院の遺墟を尋ねると必ずや、西暦紀元第八世紀から、第九世紀頃に亘りて、建設せられた此等の寺院には、密教の佛像多くあるを發見せらるゝことと思ふ、此等の寺院が、僻地だから、わざ/\往くは、いやなら、せめて、「※[#濁音付き片仮名ワ、1−7−82]タ※[#濁音付き片仮名ヰ、1−7−83]ア」の博物舘でも、一見せらるゝがよい、唐代に密教が流布した時代には、此の地方にも、密教が盛であつたことと思はるゝに相違ない、して見ると、唐代の密教は、畢竟、印度から起つて、東亞一帶の地に澎湃として漲り來た波浪の餘波に相違ない、印度にては、密教の起原は、悠古の時代にある、必ずしも、龍樹菩薩を待つて起つたものでない、必ずしも、龍智阿闍梨を待つて盛になつたでもない、もし密教にして、如來内證の眞理であり、機根の最も熟したるもののみに傳ふべき教ならば、古代印度の諸宗教は、大抵密教である、「ウパニシヤツド」文學は宗義通り解釋すれば、師資相對して、親しく授受すべきものと云ふにあるも、古來印度の學者は、これを秘密教の義に解して居る、もし又密教にして、増益、息災、呪咀禁厭の法を含み、醫療星占の學を兼有する宗教とすれば、四吠陀中の阿闥婆吠陀は、其の呪文、其の儀軌、其の綱要、其の一切の附屬文學は、即ち、これに相當する、もし又密教にして呪文、其のものに力があり、功徳がありてこれを唱ふることによりて、拔苦與樂の力あると云ふなら、吠陀や、「プラーナ」の文學中にも、これに相當する部分は、甚だ多い、要するに、密教的思想は、人類に普遍なる要求であつて、世界孰れの邦域でも、人間の居住する所なら、孰れの時代、孰れの階級を問はず其の存在を見、又存在の理由もある次第で、たゞ、印度では、古代から、これに關する文學が、最も豊富であつて、今日も比較的多く傳はつて居るから、印度ばかりが、密教の本塲の如く見えるが、世界各國、程度の多少こそあれ、密教的思想又は形式の存在せぬ所はない、されば、印度に於ける密教の發生は、其の根本に遡りて時代を定むることが出來ぬ、吠陀の文學の成立した時代は、或は、今後判然明白になることが出來るにしても、其の文學の根本たる思想の發生は、决して、文學成立の時代と同時代ではないから、密教の文學が出來る以前に、密教的思想なり、密教的信仰なりが出來た時代は、たゞ悠古の時代にあつたと云ふことが出來るだけで、今より幾千年前であつたか、何人も、これを定むることは不可能である、阿闥婆《アタル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》吠陀の成立は、梨倶《リグ》吠陀の成立に比すれば、其の年代は、後代にあるべきことは、言語發達の上から推定することは、出來るが、同時に阿闥婆《アタル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》吠陀の中に現はれた或る思想、習慣、信仰は、梨倶《リグ》吠陀の中に現はれたものに比すれば、一層上代にあつたと云ふ確證も出すことが出來る、要するに、密教的信仰の根本は、其の年代を定むることの不可能なることは、何人も、承認せねばならぬ。
然らば、いつの時代から、密教が佛教の中に入ることになつたかと云ふと、若し佛教が、其の名目に於ても、實質に於ても、果して、迦毘羅城の一王子の出現以前に於て皆無であり、又其の出現を待つて、始めて出來たものならば、密教が佛教の中に入つたは釋迦佛の出現以後即ち西暦紀元前第六世紀乃至第五世紀の時代より、後であると云はねばならぬが、それは、各自の見方如何によることで、吾輩は、佛教を以て、單に、或る時代、或る方處に於ける印度思想の存在の一形式と見做たものであるから、若し佛教と云ふ名稱だけの起源なら、密教と云ふ名稱とは、文字が異同あるから、名稱の異同を立つるも、不賛成ではないが、實質内容の詮議となると、共に均しく、印度思想と云ふ、大潮流の中にあるので其の潮流が、平風恬波洋々として流るときを、假に小乘佛教と名づくれば、風に煽られ、岩に激して、波浪澎湃としてゐる部分を、大乘佛教と名づけ、瀑布となり廻瀾となつた部分を、假に密教とすると云ふ風に、印度思想の變遷を觀察するが、吾輩の見方で、密教が、佛教に入つたとか、婆羅門教が佛教に入つたとか云ふやうな見方は、私の賛成出來ぬ見方である、若し夫れ、西洋の一派學者の云ふごとく、婆羅門教が佛教に入つて、佛教が墮落したのが密教であるなど云ふは、一顧の價値だになき論で、かゝる論者は、先づ婆羅門教とは如何なる教か、佛教とは、如何なる教かと云ふことの定義を下して見るがよいと思ふ、同時に、南方所傳の佛典には、果して、論者の信ずるごとく、比較的原始佛教の俤を傳へたものであつて、毫も密教的信仰が、其の中に發見出來ぬか否やを、研究したら、かゝる議論は出來ぬ筈であると、私は信じます、今日日本に傳つて居る密教には、瑜伽の哲理と修行は、基礎になつて居る然るに、瑜伽の行と見るべきものは、昔から佛教の中に存在して、其の大乘たると、小乘たるとに論なくこれによりて、神變自在を得んとするのである、かの地想觀水想觀などの、觀行は、即ち、是れで、地想觀ならば、土塊が、小さい堆積を作り、地大即ち、土地と云ふ、元素の形状を、己の心に思ひ浮べ、又一心をこれに集中する爲め、其の名を念誦する、同時に、己の身體は、これと同一體であると觀じる、かくの如くして、久しきに亘ると、觀行圓熟して、目を閉づるも、目を開くも、地大の、形色が、心目に浮び來るが、かく見えるものを、相即ち(Nimitta《ニミツタ》)と云ふのである、かゝる状態に立ち來ると、天に翔り、地に入りても、水に沒しても、一向差支へなく、所謂自在を得たものとなるのである、水想觀でも、風想觀でも同一である、其の他、佛教に通じて、瑜伽の修行や理論が基礎となつて居る點が多い、密教の行者が、自己の對して居る本尊と、自己と同一體であると見るは是れ、瑜伽の理論に基づいたもので、瑜伽の哲學の目的は、能觀と所境相分と見分との區分を沒却するに外ないのである、しかし、密教の理論的方面には、必ずしも、瑜伽の哲學のあるばかりでなく、もと/\、密教は、前にも云つたごとく印度思想の一大潮流が、或る時代に於て密教となつて現はれたものであるから、種々の哲學が其の中にある、聲字實相論などは、毘陀の常住不滅を唱導する彌曼差《ミーマーンサ》哲學と、其の歸趣を一にするものと吾輩は信ずる、又、即事而眞の説と、吠檀多哲學の最後の安心である、余は梵天なりと云ふ論と、如何なる差違があるか又密教の中には數論的分子もある、この分子の多く入つた密教は、今日もなほ、印度に殘つて居る、自性と神我との關係を、男女の關係に見て、象徴的の解釋をすれば、ともかく、文字通り解釋すると、淫猥極まる宗教となりて居る、所謂|怛土羅《タントラ》派の左行派《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーマ、チヤーリン》である、これに反するものは右行派《ダクシナーチヤーリン》である、其の他|布字《ニヤーサ》の法にしても、種字《ビーヂヤ》にしても、曼拏羅《マンダラ》にしても、陀羅尼《ダラニー》にしても、今日日本に存在して居る密教の中に於て、發見するごときものは、印度の「タントラ」文學中には、發見出來ぬが、其の大體の歸趣は、相似て居る。
密教の始祖は、印度に於て、龍樹菩薩となつて居るが、これに師事して、密教を、七百有餘年間一人で、護持し、金剛智三藏に傳へたのは、龍智阿闍梨耶と云ふことになつて居る、一體、龍樹菩薩は、密教のみならず、種々の、佛教の教義の始祖となつて居らるゝ、又哲學宗教以外の藝術で、例へば、錬金術とか、醫學とかの始祖又は中興者となつて居らるゝ事は、諸君も、御存知のことゝ思ふが、吾輩は、以上の外に、龍樹菩薩は、〔Rati−c,a_stra〕《ラテイ、シヤーストラ》 と云つて、男女愛染の規則を載せた文學の書を大自在天の啓示によりて、書かれた[#「書かれた」は底本では「書かゝれた」]ことを、先年、或る書物を見たときに發見したことがある、佛教者から云ふと、龍樹菩薩は、自分等ばかりの教祖であるやうに思はるゝが、實は、古代印度の諸學術の研究者が、仰いで以て、祖師とする所で是れ又、密教の教祖として、最も適當な資格を具して居られた方である、其の生存の時代は、義淨三藏の南海寄歸傳に據れば、婆多婆漢那《シヤータ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ハナ》王朝の王で、市演得迦と云ふ名の王の時代に居られたことが、明白であるが、其の市演得迦と云ふは宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈とある中の、禪陀迦と同名であるが、如何なる音を寫したものであるか判然しない、今まで、種々、其の音譯を原語に還源しやうとした人があるが、一として、根據のある結果を得ない、從つて、其の王の名から、龍樹の年代を定むることは、不可能であるが、龍樹の弟子の龍智は、七百年生存し、大師在唐の時、醴泉寺で、般若三藏や牟尼室利三藏に此の事につきて問はれたとき、今猶生存せらるゝとの解答を得たことから、推すと、龍智の師であつた龍樹は、大師在唐の當時、即ち西暦紀元八百五年より以前、七百有餘年前、即ち、第二世紀以前の人と云はねばならぬ、龍樹の時代から、佛教には、密教的思想が、多く、加はつたに相違なからうが、密教の理論、并に形式に關する部分で今日梵文が存在して居るものを見ると其の用語が、非常に典雅で格調の正しく、到底紀元後二世紀以前のものとも見えぬから、其の以後次第に出來たもので、完成せられた時代は、隋唐の時代に先つこと、あまり遠くはな
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