M仰が、勝れて居る、北魏の胡太后や、武周の則天武后などは、それである、印度の寶思惟三藏や、覩貨羅國の寂友や、于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]國の提雲般若や、實叉難陀などが、高宗や武后の歸依を得たのは、尤もな次第である、義淨三藏が、長々印度や南海に流寓して、歸朝したときなどは、則天武后親しく、上東門外に迎へられて、幡盖歌樂を具して、中々もてた、しかし、義淨三藏は、もともと、律を研究に印度に出掛けた人で、歸朝後も、專ら律法を弘宣するに志したことが云ふまでもない、密教は、あまり印度では、勉強しなかつた、其の證據には、自著の西域求法高僧傳の中に、荊州の道琳法師の傳をかいて居る序に、故呪藏云升天乘龍、役使百神、利生之道、唯呪是親、淨於那爛陀、亦屡入壇塲、希心此要、而爲功不並就、遂泯斯懷、とある、呪藏は决して密教の全部でないが、又密教の最も重要な部分である、少くとも、唐代の人々は、密教とは、升天乘龍、役使百神の術を教ふるものと解して居つた、金剛智三藏や、不空三藏の傳を見ても、常に、帝王の勅によりて、雨を下し、風を呼び、鬼神を役使するやうな術をやつて居ることが明白である、然るに義淨は、自から自分の著書、大唐西域求法高僧傳に於て告白するごとく、那爛陀寺では學ぶつもりであつたが、どうもいけない、だから、絶念したとある、その絶念した義淨が、唐に歸りて、則天武后の寵遇を受けてから、翻譯した經律の名目を見るに、もともと律の專門家であり、又其の翻譯が素願であるから、根本説一切有部律に關する翻譯が、多くあるのは、不思議でないが、觀自在菩薩如意心陀羅尼經や、曼珠室利菩薩呪藏一字呪王經や、佛説稱讃如來功徳神呪經や、佛説拔除罪障呪王經などは云ふまでもなく、佛説療痔病經や、佛説大孔雀王呪經や、尊勝陀羅尼經や、其の他、眞僞は疑はしいとして、星占暦數に關する經書も、義淨の翻譯したものになつて居る、是れ抑も如何なる故であつたか、理由は、極はめて明白である、即ち、當時の天子並に宮中の最も歸依した宗教は、密教であつたので、何がさて措き、則天武后のやうな不道徳な女主が、大唐の天下を支配することになつてからは、律や、戒などの書物を譯したとて自分の素志を遂ぐる丈で、こればかりでは、宮中の歸依を得るに足らない、不本意ながらも、何も弘法利世の爲めとあつて、流石の義淨も、密教の書物を譯したものと、吾輩は斷言する次第であります、義淨の入寂は、玄宗皇帝の先天二年即ち開元元年であります、西暦七百十三年でありますが、當時支那のことが、印度にも傳はつて、密教の勢力が日に盛なることが、金剛智三藏にも、善無畏三藏にも、其の事情が判明したと見えて、善無畏三藏は、開元四年、即ち西暦七百十六年、金剛智三藏は、開元七年、即ち西暦七百十九年、印度から、途を南北に分ちて、入唐した、開元天寶の時代は、唐の文明が、最も隆盛を極めた時代で、藝術が最高潮に達した時代である、當時宮廷の風尚、信仰の状態は、晩唐の詩人鄭嵎が津陽門詩に於て歌ふた通り、禁庭術士多幻化、上前較勝紛相持、羅公如意奪顏色、三藏袈裟成散絲、で盡して居る、羅公とは羅公遠のことで、三藏とは金剛智三藏のことか、不空金剛三藏のことか明白でないが、それは孰れでもよいとして玄宗皇帝の方は、羅公遠を崇び、楊貴妃の方が、金剛三藏の方を崇ばれた、天子が功徳院に幸し、七聖殿に謁せんとしたとき、背が痒きを覺えたから、公遠は早速竹枝を折りて、方術で、七寶の如意となして、天子に進めたが、金剛三藏が、袖の中から眞の如意を出した、七寶炳耀として、光あつて、公遠の献じたものは、竹枝となりてしまつた、是れは羅公如意奪顏色とある、又公遠が符を飛ばして、三藏の金襴の袈裟を奪ふたが、三藏は呪を誦してこれを取つた公遠は、更らに水龍符を袈裟の上に撰びたが、袈裟は散して、絲縷となりて盡きたとある、天子の神仙を好んだことは、明皇十七事と云ふ書にも出て居る、善無畏三藏が、天子の命を受けて雨を祈つたことも、此の書の中に出て居る、當時天子の禁廷に出入して、其の寵遇を受けた術士高僧は、尠くはなかつたが、就中、不空三藏は、灌頂國師となつて最も、天子の親信を受けたのである、宋の高僧傳を見ると、左の如き文がある。
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玄宗召術士羅公遠、與空※[#「てへん+角」、60−9]法、同在便殿、羅時時反手掻背、羅曰借尊師如意、時殿上有華石、空揮如意、撃碎於其前、羅再三取如意不得、帝[#「帝」に白丸傍点]欲起取、空曰三郎[#「三郎」に白丸傍点]勿起、此影耳、乃擧手示羅、如意復完然在手とある。
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佛祖歴代通載の第十七卷には、天寶年間丙戌の記事として前文と大同小異の文が載せてある。
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是歳不空三藏自西域還、詔入内結壇、爲帝灌頂、賜號智藏國師、時方士羅思遠者、以術得幸、有旨令與不空驗優劣、他日會干便殿、思遠持如意、向之言論次、不空取如意投諸地、令思遠擧之、思遠饒力不能擧、帝擬自取、不空笑曰、三郎彼如意影耳、即擧手中如意示之、とある。
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如意が手中にあつたか、手中になくて、地上にあつた、又如意が輕かつたか、重かつたか、羅公遠と云ふが正しかつたか、羅思遠と云ふが正しかつたかが、吾輩の問ふ所でない、吾輩が、前文を見て、深く心を動かすものは、不空三藏が、大唐の天子、東方亞細亞の大皇帝に對し、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云つて陛下とは云はなかつた一事である、三郎[#「三郎」に白丸傍点]とは、玄宗皇帝の通名である、即ち睿宗皇帝の第三子であるから、親子兄弟親朋の間には、面とむき合つて、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云ふも、差支はなかつたらう、又、玄宗皇帝は、若き時分から濶達の氣質で居らして、盛に壯士と布衣の交をしたものであつたが、皇帝となられても、隨分浮名を流されたことゝ察せらるゝから、民間でも、所謂蔭口では、三郎[#「三郎」に白丸傍点]と云ふたことは、恰も、今日巴里の市民が、我が同盟國である筈の英國の先帝、「エドワード」第七世陛下の御壯年時代を追想して、快濶な「エツ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ード」などと呼ぶがごときものであるが、面と向き合つて、英國の先帝陛下に「エツワード」と呼びかくることの出來た人々は、世界の中、幾人あつたか、玄宗皇帝のことを、單に三郎[#「三郎」に白丸傍点]と蔭口に、民間で云つたことは、いくらも例がある、俗書ではあるが、鶴林玉露と云ふ書の中に、郎當曲と云ふ題下に、魏鶴山の詩を引用して、紅綿繃盛河北賊、紫金盞酌壽王妃、弄成晩歳郎當曲、正是三郎快活時とある、快活三郎とは、民間が、玄宗皇帝を蔭で呼んだときの名である、河北賊とは安禄山のことで、未だ反せぬとき、楊貴妃が紅綿の※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]※[#「女+綵のつくり」、62−7]で、安禄山を包んで、宮中に舁き込ましめたから、かく云ふのである、壽王妃とは、楊貴妃のことで、もと/\、壽王の妃であつたが、早く云へば、玄宗皇帝が、横取して、宮中に納れたから、かく云ふのである、安禄山の變で、蜀に蒙塵せられ、亂平いで、長安に歸らるとき、驛傳の駝馬につけた鈴が、郎當/\と音するから、天子が、妙に感ぜられて侍臣に對し駝馬も人の言語をするやうだと云はれたから、侍臣が、さやうです、三郎郎當[#「三郎郎當」に白丸傍点]/\/\と云ふのでありますと、諧謔したから、天子は、苦笑せられたとあります、しかし、鶴林玉露は俗本であるから、採るに足らぬと云ふなら、さきに引用しました鄭嵎の津陽門の詩中に、三郎紫笛弄煙月、怨如別鶴呼覊雌、玉奴琵琶龍香撥、倚歌促酒聲嬌悲とあるを見ても、明かで、玄宗皇帝は、笛が得意で、いつも、紫玉の笛を吹かれた、玉奴とは、楊貴妃のことで、琵琶が上手、其の構造は、贅澤を極めたもので、琵琶の撥は、龍香柏で作り、其の槽は、邏沙檀とある、邏沙檀とは、恐らく沙邏檀の誤であらうと思ふ、これならば、印度で、非常に珍重する蛇心檀「サルパ、サーラ、チヤンダナ」(〔Sarpa−sa_ra−candana〕)であつて、沙邏は心《サーラ》の音譯だと、吾輩は信ずる、いづれにしても、其の贅澤の程が推察せらるゝ次第であるが、しかし、大唐天子の贅澤である、かゝる位のことは怪むに足らない、この大唐天子の帝師となり、灌頂國師となり、勅によりて、或は雨を祈り、或は雨を止め、或は西蕃の寇を攘ひ、或は河北の賊の變を豫言し、玄宗皇帝より、代宗に至るまで、三代に歴仕して、禁闥に出入し、位は儀同三司即ち今の大臣待遇に至り天子を呼ぶに、其の名を以てして、天子咎めず、入寂のとき、天子これが爲めに廢朝三日に至つた程まで、朝野に重きをなして居つた高僧は、即ち不空三藏其の人で、大師の師惠果は、即ち其の弟子であつたのである。
惠果も、大唐天子の灌頂の國師であり、三代に歴仕して、徳惟時尊、道則帝師であつたとすると密教は、善無畏三藏や金剛智三藏の來朝以來一行禪師だの、不空三藏だの云ふ樣な連中の努力により、事實上已に、大唐天子の最も心を傾けて歸依せられた宗教となつたのである、密教を組織的に唐に傳へたは、善無畏三藏であるが、かくまで密教の勢力を唐の宮廷に扶植するに至つた始めは、金剛智三藏を推ねばならぬ、玄宗皇帝が、最初の程は道教に歸依して居られたので、三藏の教化が、これを密教に歸依せしめたのである、宋高僧傳の金剛智三藏の傳の下に、干時帝留心玄牝、未重空門とあるを見ても、明白である、玄牝とは、老子の所謂谷神死せず、これを玄牝と云ふに基いたものである、しかし、密教の流行は、當時東方亞細亞一般の氣運であつて、必ずしも支那ばかりでない、印度には、中部の方では那爛陀を中心として、烏荼《ウドラ》國にも及び、密教が流布して居るし、西部では、羅荼《ラータ》國が中心であり、西北境では、烏萇《ウデイヤーナ》國、迦畢試《カピシヤ》國にも流布して居つた、就中、羅荼《ラータ》國は今の「ラール」一帶の地方で、昔から、密教の中心であつたことは、大唐西域求法高僧傳の中、玄照の傳や、道琳の傳を見ても判然する、又隋の東都洛濱上林園翻經舘南賢豆沙門|達摩《ドハルマ》笈多《グプタ》も、續高僧傳によると、南賢豆、羅※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]國人也とあるが、賢豆は、印度のことで、羅※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]とは「ラーラ」と發音するのであるが是れは羅荼《ラータ》と同じことである 〔La_ta〕[#tは下ドット付き] の Ta[#Tは下ドット付き] は時ありて、印度で、「ラ」と發音することもあり、又支那では、羅又は※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]の音で寫すことがある、二者同一で、希臘の地理學者の「トレミー」の書に所謂 Larike であるとは、私の意見である、西部の印度に屬し、稍や南に偏在するから、南賢豆國の中にしたものと見える、今日の地理から云ふと、Tapti(タプテイ)河と Nerbudda(ネルブダ)河との流域の地方である、南方の地並に其の密教的宗教の中心であつたことは、これでも推察せらるゝ、又烏萇國は、大唐西域記第三に所謂|烏仗那《ウデイーヤナ》國で、昔僧徒一萬八千、今漸減少、並學大乘寂定、喜誦其文、未究深義、戒行清潔、特閑禁呪[#「閑禁呪」に白丸傍点]とあり、其の外、南印度では、龍樹菩薩や、龍智阿闍梨[#「龍智阿闍梨」は底本では「龍智阿闇梨」]の本塲であるから、其の密教の盛大なことは云ふまでもない、弘法大師の付法傳で見ると、龍智阿闍梨耶は、上天入地、無碍自由、或住南天竺、弘法利人、或遊師子國、勸接有縁、とあり、南天竺并に師子嶋即ち今の錫蘭嶋の人々は、當時齊しく、仰で、龍智阿闍梨耶を崇信したことが明白である、かゝる次第であるから、栴檀樹の香が、軟風に薫ずる摩頼耶國に、密教の第五祖、金剛智三藏が生れたのである、貞元釋教録には、金剛智三藏が、入唐以前に南天の國王捺羅僧伽補多靺摩の爲めに、雨を祈つたことが出てあるが、單に南天とばかりでは、漠としてゐるが、なるほど、香至《カーンチ》國の王に Nara−simh
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