フ方でも、此等の外國の人民を待つことが、中々親切であつたから、日本の樣な、支那から離れて、政治上獨立國の人民はともかく、日本以外の國で支那に近く、又支那に對し附庸、從屬の關係のあつた國々の人々は、支那に赴きて、支那の朝廷に仕へ、支那の官位を帶ぶることは、さまで恥とせぬのみか、却て榮としたことが、恰も羅馬の盛時、莱因《ライン》、多惱《ドナウ》の二大河附近の獨か民族が、羅馬に仕へて、其の勳位を受け、其の官職を帶びて自から榮としたと一樣である、だから、支那に何か變亂が起ると、决して、すて置かない、或は、天子の命に應じて、自から兵を提げて、戰ふたり、或は、戰軍の首領の催促に應じて、出掛くると云ふ風で、李世民が、隋の亂に乘じて、晋陽から起り天下を平定し、大唐三百年の基を開いたのは、抑も、突厥の兵の力を借りたくらいだから、唐の天子の下に仕へた連中で、撥亂反正の功のあつたものゝ中には、外國人が尠くない、殊に日本人から見て、可笑しく思ふのは、安禄山の亂のときである、安禄山、史思明、安慶緒などは、申すまでもなく、これに對して、戰うて眞に唐の天下を克復したは、吐蕃や、突厥の兵では、固より、これを統卒した李光弼だの、尉遲勝だのは、一方は契冊の人、他は、于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]の人であつた、此等の國の兵士等は、宗家の火事に、分家の格で、消防にかけつけるやうな工合で、唐の文明が、傍近の諸國に對しては、武力の外に如何に恩澤を布くことの厚かつたことが、判明する。
又大師入唐の當時、外國人が如何に支那の朝廷に仕へて、其の官職を受くることを榮としたかは、般若三藏の傳を見ても、判明する、云ふまでもなく、三藏は、迦畢試國の出身である、宋高僧傳第二によると、貞元二年始屆京輦、見郷親神策軍正將羅好心[#「羅好心」に白丸傍点]、即慧(般若三藏)舅子之子也、悲喜相慰、將至家中、延留供養とあり、即ち迦畢試生れの般若三藏は、幼少の頃より出家して諸方に流寓し、中印度の那爛陀寺で、大成し、南海を飄浪して、貞元二年に始めて長安に來たが、ふと、神策軍の正將、即ち、今日の語で云へば、禁衞軍の大將であつた、羅好心と云ふのが、自分の母の里方の子、即ち、自分の從兄であることを發見したのである、迦畢試と云ふ國は 〔Kapic,a〕《カヒシヤ》 と云ふた國で、支那から、西域の諸國を遍歴して、愈々、これから印度に入らうと云ふときに、通る國で、今の Kafirstan《カフヒルスタン》 である、地圖で一見すると判明しますが、印度の西北境にある國である、羅好心は、これから、やつて來て、しかも、支那の天子の親近を辱うし、禁衞軍の大將となつたのである、しかも、朱※[#「さんずい+此」、第4水準2−78−36]の亂のときは、其の中軍を指揮して、頗る戰功があつたことが、宋高僧傳に、般若三藏の傳に附帶して、見えて居る、其の肩書も奉天定難功臣開府儀同三司※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校太子※[#「譫のつくり」、第3水準1−92−8]事上柱國新平郡王とあつて、朱※[#「さんずい+此」、第4水準2−78−36]の亂に、徳宗皇帝が奉天に蒙塵せられた、其の時に、禁衞軍に將として、奮戰して、回天の事業に貢献したものだから、奉天定難功臣と稱したので、中々振うて居る、遙々と山河萬里の絶域から來て唐の天子に仕へ天子が、危いときは、身命を賭して戰ひ、天子も又これを疑はないで、禁衞軍の大將にするなどは、一は、羅好心なるものゝ誠忠によることであるが、一は、唐の天子が、東方亞細亞の大帝王を以つて自から居り、百王の王を以て、自から居つたからで、自分は、天に代りて、道を行ひ四夷は皆己れの藩屏で、國平かなときは、化を慕うて來貢し、國が亂れたときは兵を率ゐて、己に忠を竭すべきものと信じて居つたからである、かく信ずることの是非善惡は暫らく擱きて、かく構へ込んだところは、大きいと云はねばならぬ、とにかく、「カフリスタン」の邊陲から來て、禁衞軍の大將となることなどは、唐の天下であるか、羅馬の盛時でなくば見られない現象である、現今、英國の國王の護衞兵の中に「シツク」の騎兵が居るなどは、やゝ似て居るが、とても及ばぬことゝ思ふ、般若三藏が、大乘理趣六波羅蜜多經を再び譯するに至つたは、全く、此の羅好心の天子に奏聞した結果で、其の奏聞に對する御枇などは中々鄭寧なもので、卿之表弟、早悟大乘、遠自西方來遊上國、宣六根之奧義、演雙樹之微言、念以精誠所宜欽重、是令翻譯俾用流行、卿夙慕忠勤、職司禁衞、省覽表疏、具見乃懷、所謝知とあるは、唐代の天子が如何に外人を待つに厚かつたかゞ判明する、弘法大師の入唐は、即ち此の天子の貞元二十年で、般若三藏が、羅好心の援助を得て、理趣經の翻譯を竣へた年から僅に十二年の後である。
かくの如く、東方亞細亞の大帝王、百王の王として、萬國の仰ぎ見た唐代の天子は、抑も、何を信じて居られたか、又天子の身邊を圍繞する大臣宰相の信仰した、宗教は何かと云ふ問題になると、それは、歴代の天子により、又卿相の意樂により、又宗教界から出た偉人の性格により、時の變易があつて、一概に論ずることが、困難であるが、先づ動きのないところは、當時道教が、唐の天子の歸依によりて、中々盛んなものであつたと云ふことである、元來、老子も、李姓なれば、唐の天子も、李姓である、それにつけて、天子は老子の子孫のあると附會したものだから、老子の崇拜が、盛になり、至る所、道觀が起り、道士が勢力を得た、かの老子化胡經などと云ふ書物が、最初は、晋代の王浮が作つたものであるが、唐代に至りて、一層舖張したのである、これは、老子が、西の方關を出でんとしたとき、尹子の乞に應じて、五千言を遺したと云ふ傳説に附會して、其の儘死なすのは、惜しいから、尹子と老子とが印度に入りて釋迦となり、舍利弗目※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]連等を化度したり、波斯に入りて、末摩尼となつたり、して、摩尼教を建てたなど云ふ、ことを書いたもので、王浮の作つたときは、一章であつたが、唐代に至りて、種々の宗教が入つた爲め、老子尹子を、此等の宗教の祖師とする必要から、種々添補して、幾多の章になつたが、此の書物は、日本にも、唐代から傳はつたと見え、藤原佐世の日本見在書目の中にも、出て居る、私共の友人で、桑原博士が、先般「藝文」の中に此の書のことを詳細に論じて居るから、篤志のかたは、是非一讀を願ひたい、かゝる書物が、唐代で流行したのは、全く、道教が盛になつたからで、有名な玄奘三藏が印度から歸つたとき、太宗の勅命で、印度から唐の朝廷へ來る國書の翻譯やら、又唐から印度へやる國書の起草など一に玄奘三藏の手を煩はしたものであるが、東印度の童子王、即ち迦摩縷波國の「クマーラ」王の請により太宗の思召で、老子の道徳經五千言を梵文に譯して、西域の諸國に贈れとの事で、玄奘は、道士等と共に其の翻譯に從事した位である、不幸にして、道士等が、老子の所謂「道」を菩提と譯せんと主張し、玄奘が末伽(〔Ma_rga〕)と譯しやうとし、とかくに玄奘と議論が合はない、ともかくも翻譯して、將に封勒せんとしたが、又議論が出來て、結局西域の方へ送つたのか、送らなかつたか、西明寺の道宣が作つた集古今佛道論衡實録の乙卷や續高僧傳の第四卷に見えたゞけでは、不明であるが、太宗の意では、老子の教を、西域の諸國へ弘布せしめんとしたことが、明白である、如何に老子の教が、唐代の初期に重要なものと思はれたかゞこれでも、判然する、しかし、道教と密教とは呪咀禁厭等の事を語ることは、相似て居る、老子の作つたと云ふ道徳經ばかりでは、左程にも思へないが、唐代の道教に至つては、或は延年の法を談じたり、龍に乘り、雲に駕することなどを言ふことが多い、密教を護持するものは、僧侶で、道教を護持するものは、道士であるから、護持者には、相違があり、又教旨根本の原理は、雲泥の差があるが、世人の目から見れば、其の外形は、甚だ肖似して居る、故に唐代の初期に道教の隆盛を封したと云ふことは、軈て密教興隆の氣運を誘起することゝなり、密教と道教とは、其の間に種々の混一を見るに至つた、今日日本の密教の中には、或は泰山府君の信仰があつたり、司命神だの司禄神だのを祭るは、即ち、道教の神が密教の中に混入して來た一例で、泰山府君の眞言を見ると、Namah[#hは下ドット付き] 〔samanta−buddha_na_m〕[#最後のmは上ドット付き] 〔Citra−gupta_ya sva_ha_〕 諸佛に歸命す、「チトラグプタ」に素婆訶」とある(淨嚴の普通眞言藏、下卷參照)「チツトラグプタ」は、印度の冥官で、焔羅王の命を受けて、人間界を案行し善惡の記録をとりて、死者來れば、其の記録によりて、焔羅王を扶けて死者の靈魂を裁判せしむる役目あるものである、今日印度で「カーヤ、ストハ」と云ふ状師書記、主薄などの階級は、遠く其の系統を「チツトラグプタ」に遡及して居る、支那の泰山府君が此の印度の神と同一にされて、密教の中に入つてゐるは、實に奇妙な現象である、又護符の中に、急々如律令などの文句は、道教にも密教にも、同じく使用せられた文句である、太宗皇帝時代の上流社會の風尚は、佛教よりも、寧ろ道教に傾いて居つた樣であるが、何分隋以來の風流餘韻が、唐代の初期に及んで居るから、佛教も、衰へた譯でなく、玄奘だの、玄證だのと云ふ樣な佛教界の英俊が出た時代であるから朝廷の佛教に對する崇敬の念は、増すばかりであつた、高宗皇帝の時代になると、玄照と云ふ高僧などは、勅命を蒙つて、印度に派遣せられ、長年婆羅門盧迦溢多を迎へに行つたことが、義淨三藏の大唐西域求法高僧傳に見えて居る、其の外長年の藥を求めに印度に赴いた、高僧がある、玄照は其の人である此の長年婆羅門とは、抑も、如何なる梵語の譯であるか判然しない、或は、具壽、又は長老の梵語に當る 〔A_yusmat〕《アーユシユマツト》[#sは下ドット付き](命壽あるもの)を配する學者があるが、是れは、明かにいけない、寧ろ、〔Di_rgha_yus〕《デイルガハーユス》(長命の)〔Cira−ji_vin〕《チラヂーヰン》(長生の)などの成語が適當である、又、盧迦溢多は 〔Loka_yata〕《ローカーヤタ》 の音譯としてあるが、是れは、賛成だが、しかし其の意味は、順世外道と云ふに至つて、人名とも見えない、察するに、當時の順世外道は今日の唯物論者と同じく、人間の生命などは、四大の和合から出來た現象と見るのであるから、或は此の派に屬する哲學者は、四大の配合如何によりて生命を延ばし、又不死の妙を致す方法を唱へたものと思はるゝ、今日の化學者を以て、これに比するは、聊か不倫ではあるが、昔時|錬金學者《アルケミスト》のやうなものであつたらう、かゝる哲學者が、印度に居ると云ふことを、誰が、高宗皇帝に奏聞したものか、判明しないが、高宗皇帝は、秦の始皇帝と同じく又漢の武帝と同じく、かゝる靈藥は、人間にあることゝ信じて、折角多年印度に留學して漸く歸唐し、これから翻譯にでも取りかゝらうと思うて居る、玄照を印度にやつた、然る所、北印度の界で、唐の使節が、盧迦溢多を引きつれて、支那に歸らうと云ふのと、遇ふたものだから、更らに廬迦溢多の命によりて、西印度の羅荼(〔La_ta〕[#tは下ドット付き])國に赴き、長年藥をとりに往つたとある、此の羅荼の國は、當時密教の中心である、此等のことから見ると、高宗皇帝は呪術禁厭等のことを信じて居つたらしい、武周の世になつてからは、武后自身は、隨分ひどいことをして高宗の寵を專にし、又唐の天下を奪ふまでには、種々の罪惡を積んで居る、しかし、根が女人であるから、時々往昔の事を思ひ出しては、己の罪業の恐ろしきことを思ひ到つたに相違ない、かゝる女人に對しては、罪垢滅盡の法を有する密教は最も適當な教である、一體女人で帝王になつた方々は、和漢共に高論玄談を主とする樣な宗教は、喜ばない、寧ろ三寶を敬信して、福田を植ゆるとか、又攘災祈福の祭を致して、己の後生の爲にするとか云ふ風な
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