じたであらうか、又時には、峩冠盛服の胡僧を見られたり、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠より悠揚として空に騰る、香烟を見られたとき、如何に思はれたであらうか、千百歳の下、竊に大師の當時に於ける感想を忖度するに、身は東海の一遊子であるが今は、東方亞細亞の大都會に居るのである、自分の前に展開する事物は、是れ東方亞細亞の文明の精華であると考へられたに相違ないと思ふ。
唐代の支那が、印度又は印度系の文明に影響せられたことは、茲に喋々するまでもない、波斯又は波斯系の文明が、如何に唐代の文明に影響したかは、今猶ほ研究中であつて、成案には達せないが、研究の歩武を進むると、ますます、其の影響の淺からぬことが、明瞭になる、唐代の繪畫は、一派學者の云ふ通り、果して、波斯の影響を受けたか否やは、吾が局外者の賛否孰れとも、未だ决することが出來ぬが、工藝の上には、明かに波斯の意匠などは、認むることが出來る、奈良に保有せられて居る、蜀江の綴錦などは、其の意匠は波斯意匠たることは、一見明白である、又、波斯の星占學、天文學が唐代に於て、支那に入り、支那の暦法に影響したことは、史乘の載する所、决して、誣ふるべからざるものがある、冊府元龜によると、玄宗皇帝の開元七年六月大食國、吐火羅國、南天竺國、南天竺國、遣使朝貢、其吐火羅國、支汗那母王帝※[#「貝+余」、第4水準2−89−12][#「支汗那母王帝※[#「貝+余」、第4水準2−89−12]」に白丸傍点]上表、獻解天文人慕闍、其人智慧幽深、問無不知、伏乞恩喚取慕闍、親問臣等事意及諸教法、知其人有如此之藝能、望請令其供奉并置一法堂とある、吐火羅は、大月氏の故地で、今の「トカレスタン」であり、支汗那は 〔Jagha_niya_n〕 で、王の名は、帝※[#「貝+余」、第4水準2−89−12]と云ふが、是れは、〔Te_−sa〕 と云ふ王の名を寫したもので、大慕闍と云ふは、其の語の本源は、未だ判然しないが、「ソグト」の語で Mwck と云うて、これから轉した、突厥の語では 〔Mec,ak〕, mozak であるから、其の意味は、單に法師とか、教師とか、云ふに過ぎぬ、當時、かゝる天文學者を、唐に獻じたは、甚だ宜を得たもので夫れより以前には、唐では從來の暦法の不完全なることを發見して、暦法に關する論爭は、中々喧しかつた、高宗皇帝の麟徳年間に、李淳風が上つた暦が、採用せらるゝことになつて、麟徳二年即ち西暦六百六十五年から實行した、麟徳暦は、即ち是れである、しかし當時、印度の暦法家が、三族も、支那の朝廷に仕へて居つて、此等は中々承知しない、其の三族とは、瞿曇《ガーウタマ》族|迦葉《カーシヤパ》族に矩摩羅《クマーラ》族を加へたものであるが、其の中、瞿曇族の一人が、武周の時代に、新暦を上つて、採用せられたが、長くつゞかず、開元六年、西暦七百十八年に、瞿摩悉達《カーウタマシツドハルトハ》は、殆んど純粹の印度暦の翻譯とも云ふべき九執暦を獻した、九執とは、九惑星と云ふ義で、惑星は、梵語で Graha《グラハ》 と云つて、惑星と云ふ義の外に、執ふと云ふ義があるから、かく九執と譯したのである、五執即ち九惑星とは、五行の木火土金水の外に日月を加へて、七つとし、又地球を動かぬとせば日月の道が交叉する點が二つある、英語は Nodes と云ふが、梵語では、羅※[#「目+侯」、第3水準1−88−88]《ラーフ》と計都《ケーツ》と云ふ、これを二惑星と見て、合せて九執と云つたものである、今も印度の暦は、此の九執暦である。
然る處、九執暦も、不完全であつたと見えて、中々採用せられない、九執暦が出來た翌年即ち、開元七年西暦七百十九年に、吐火羅の葉護《ヤブフ》可※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]が、暦數に明に大慕闍を獻じたのであるから、甚だ其の當を得たものである、いづれ、吐火羅國の副王が、長安に於ける暦法の大論爭を傳聞して、此の擧に出でたものと思ふ、是に於て、支那の暦法家は從來の分と、印度の分と、波斯の分と、三陣に分れて對峙することになつた、しかし、流石は、唐代の支那である、かゝる際に、暦數の一大天才が、支那人の中から現はれた、其の天才は、何人であるか、外でない、密教の高僧の一人一行禪師其の人である、開元二十一年から、二十七年に亘つて、暦法の改訂に從事し、不幸にして、中道蘭折したが、其の法に從うて、開元二十九年に出來た暦は、即ち大衍暦である、當時嫉妬の餘り、或は一行が自分等の暦法を剽竊したなど云つた連中もあつたが、遂に一行禪師の勝利となつて採用せられ、公布することになつた、恰も、日本から、十年後に吉備眞備などが、出掛けたが、當時果して、持ち歸たか否やは知らぬが、それから十餘年にして、淳仁帝の八年、稱徳帝の始から、九十四年間、大衍暦を採用することになつた次第である、私が先年巴里に留學のとき、佛蘭西の國士の遺骸を斂めた「パンテオン」と云ふ塔の近傍に暫時寓して居つた、其の傍には、「ソルボンヌ」大學や「コレージユ、ド、フランス」など云ふ學校があるが、其の學校の上に當りて、巴里中の最も爽※[#「土へん+豈」、42−9]な部分に、「サント、ゼニネーブ」と云つて、巴里市の守本尊の名を冐した、圖書舘がある、其の正面と側面とには、世界の中で昔から學術の進歩に貢献した名士の綺羅星のごとく、刻まれてあるから、試に日本の學者の名が、出てないかと、仰ぎ見たが、一人も出ていない、段々と正面から側面の方に廻はつて見ると、忽ち、「イ、ヒン」(i−hsing)とあつた、「イ、ヒン」とは、一行[#「一行」に白丸傍点]の官話音である、「ラプラース」や、「ニユートン」などと、肩を並べて、一行禪師の名が、輝いて居る、私はこれを見て、天涯萬里の外に、一人の故舊と遇つた心地がした、同時に、人間と云ふものは、孰れの國に生れ、孰れの時代に生れても、刻苦して宗教學術に貢献して置きさへすれば、假令ひ、其の同時代の人々から、かれこれ云はれても、又、疎外せられても、冷遇せられても、千載の下、いつしか知己があるものと感じた次第である、諸君は素より弘法大師の遺弟であることを忘れてはならぬが、同時に、大師が異世の師に、一行禪師のあつたことを誇りとせねばならぬ、西暦第八世紀の前半に於て、世界第一の暦法學者が、密教の高僧があつたことを誇りとせねばならぬ、しかし、波斯の暦法が支那に入つて、支那人の間に、當時行はれたことは、不空三藏の譯した文珠師利菩薩及諸佛所説、吉凶時日善惡宿曜經を見れば、明白である、其の中、一週の日を、列擧して波斯語と胡語と、梵語との名稱を配してある。
日曜、太陽、胡名蜜(〔Mi_hr〕《ミール》[#hは下ドット付き])波斯名曜森勿、天竺名阿※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]底耶(〔A_ditya〕《アーデイテヤ》)
月曜、太陰、胡名莫(〔Ma_h〕《マーフ》)波斯名婁禍森勿、天竺名蘇摩(Soma《ソーマ》)
火曜、※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]惑、胡名雲漢(〔Wankha_n〕《ワーンハーン》)波斯名勢森勿、天竺名鴦哦※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]迦(〔Anga_raka〕《アンガーラカ》[#nは上ドット付き])
水曜、辰星、胡名咥(〔Ti_r〕《テイル》)波斯名掣森勿、天竺名部陀(Budha《ブトハ》)
木曜、歳星、胡名鶻勿斯(Wur−mazt《ウール、マズト》)波斯名本森勿、天竺名勿哩訶娑跋底(Brihaspati《ブリハスパテイ》[#rは下ドット付き])
金曜、大白、胡名那歇(〔Na_khid〕《ナーヒド》)波斯名斯森勿、天竺名戍羯羅(〔C,ukla〕《シユクラ》)
土曜、鎭星、胡名枳院(院)(〔Kewa_n〕《ケーワーン》)波斯名翕森勿、天竺名※[#「貝+余」、第4水準2−89−12]乃以室折※[#「口+羅」、第3水準1−15−31](〔C,ana_ic,−cara〕《シヤナイシユチヤラ》)
此の中、波斯の名稱は、皆森勿と云ふ音で終つてあるが、森勿とは Sambat《サムバツト》 の音譯らしく、意味は、支那の曜と云ふ義に相當する、其の上にある翕は Haft《ハフト》 で梵語の Sapta《サプタ》 に當り、七と云ふ義で、數は Su 本は Pan(3) 掣は 〔C,u〕 勢は Seh 婁禍は厚音音が不明であるが、ともかく 〔Dva_〕 の訛音らしく、曜は 〔Yu_〕 又は Yak らしく皆梵語の Sas[#sは下ドット付き], 〔Pan~ca〕, Catur, Tri, Dva, Cka 又は Sa と語源を同じくして、六五四三二一の義を有することは疑ない、又以て、波斯の文物が如何に當時の支那に影響したかが明白である。
唐代の支那人は、氣宇濶達で、自國のみは、宇内の中心で、自余の國は藩屏であり、自國の皇帝は、百王の主として、天に代り、宇内を統治して居るものと思うて居つたらしい、だから、自國の文化を慕うて來た外人は、善く待遇したものであつて、我が國では、安部仲麿などは大にもてた一人である、官仕して秘書監となつた許りでなく、李白だの其の他の連中と徴逐して、交をした、其の他の留學した連中も、公私共に世話になつたことは、掩ふべからざる事實である、唐代の支那ではないが、少し以前、隋の煬帝の時代に、日本から遣唐大使をやつて、日出の天子が、日沒の天子に問ふが、日沒の天子は恙ないかと云ふ主意の國書を送つたところ、煬帝は、東夷何ぞ、無禮なると怒つた話がある、日本の方から云へば、怒つたは奇怪千萬と云はなければならぬが、支那の方から云へば、煬帝の怒つたにも、聊か理由があることゝ思ふ、又或る遣唐大使のとき、支那の方では不都合にも、日本を西畔第二に置いて、しかも、新羅を東畔第一にしたから、大使は立腹して、大論判を持ち込んで、到頭東畔第一の位についた、成る程日本は政治上獨立國で、新羅のやうに、唐に對して、屬國でない、だから、新羅などの下に置くなどは不都合千萬の話であるから、日本の遣唐大使が殿上で、怒鳴つたは、大に尤だ、しかし、支那の方では、日本も新羅も、文化の上から云へば、同じく、弟子分の國であつて、政治上の關係は、別としても、其の他のことは、大した差違はない、無論不都合は不都合だが、日本を新羅の下につけたは、所謂不行屆で、さまで惡意があつた次第ではなく、支那人の人から見れば、日本も新羅も、共に支那の弟子分であつて、こう云ふ書物がないか、こういふことをする人物はないか、こう云ふ武器はないか、こう云ふものを作るには、どうしたらよいか、何卒教へて貰ひたいなど云ふことになると、新羅の方は、日本よりも、早く、支那の文化を受けて居つたから或は、支那人の目から見ると、日本よりも兄弟子位に見たかも知れない、當時日本の方の主張によると、新羅は、昔から、我が國に朝貢したものであるから、我々は新羅の大使の下に坐する譯はないと云ふにあつたが政治上の關係より見れば、尤の議論で、無學と貧乏とは昔から、日本のつきものだが、腕力の方なら、昔から、先づ日本が、他國に、大した遜色がなかつたから、日本の大使の申分も、支那人が容れて、到頭東畔第一に列することになつたのであるが、第一であつたとした所で新羅に勝つた丈で、支那とは對等の交際と云ふ譯にはいかない、一體國と國との關係は、個人と個人との關係と同じく、腕力の強いものが、必ずししも尊敬せらるゝ譯でなく、富力、智力、殊に道徳などは、國際の關係を定むるに、中々有力な資料であつて、大正の日本も、腕力にかけては、先づ一等國仲間入りが出來たやうであるが、智力と富力とにかけては、一等國の伴侶とはゆかぬ、道徳の方も、昔は、支那でも、日本を君子國と云つた位だから、昔は、よかつたが、今日の道徳では、あまり、君子國でもないやうだ、しかし、これは、餘計な事で、今日の日本はいづれでも、本論には關係がないが、唐代の支那が、傍近の諸國民を弟子扱にし、傍近の諸國民も、支那を仰で、上國とし、其の光を觀て、其の風を釆るもことを以て、よいことにして居つた、支那
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