W6−44](vi)有縛聲(v)是縛也(Bandhana)縛則煩惱也、有伊聲(i)則無縛三昧、掲多離也行也、已下怖障義云々とある、此等の解釋を普通梵語から解釋すれば、甚だ解し難きが、密教の特色は、茲にあることゝ思ふ、今日保存されて居る諸種の陀羅尼なども、普通の解釋で、一見意義を知ることが出來るもあれば、又どうしても、出來ぬものがある、しかし無意味の聲字を臚列して、これに重大な効能を附したとは、思はれぬ、何か意味が含まれて居たに相違なく、或は、梵語でなくて、南方印度の語であつたか、或は何か秘密結社の中に通用した語であつたか、然らずば今日は絶滅してあるも、以前は、生存して密教を傳へた種族の語であるか、何か根據があり、意味があつたに相違なく、局外ものには、了解せられぬが、傳燈阿闍梨の位にあるものには了解せられたことゝ思ふ、密教的解釋が、到底、局外者の常情で判斷出來ぬと云ふことは、吾輩一家の私言でない、義淨三藏の求法高僧傳の中に、道琳法師の項の下に、呪藏(〔Vidya_−dhara−pitaka〕[#tは下ドット付き])のことを論じ、もとは、梵本に十萬頌あつたが、龍樹菩薩の弟子に難陀と云ふがあつて、撮集して一萬二千頌として、一家の言をなした、毎於一頌之内、離合呪印之文、雖復言同字同實、乃義別用別、自非口相傳授、而實解悟無因、とある、流石の義淨三藏も、密教には局外者であつた丈に、大に了解に困んだものと見える、しかし、陳那菩薩には、難陀の製作が非常に巧であつたことが、判明したと見えて、撫經歎曰、嚮使此賢致意因明者、我復何顏有乎、是智士識己之度量、愚者闇他之淺深と云つて、後の呪藏を了解出來ぬものを戒めて居る、普通の梵語の解釋法を以て、大師の陀羅尼解釋法を云爲するものは、所謂、愚者闇他之淺深もので、獨り、大師の罪人たるのみならず、又義淨の所謂愚人である、たゞ吾輩は、これに對して、緘默として、他日陳那のごとき智者が、出現するを待つまでゝある、大師が梵語を講習するとき、「アーインドラ」學派(〔a_indra school〕)の語典を用ひたと見えて、大日經疏要文記中に、薄伽を釋した節に、帝釋聲論[#「帝釋聲論」に白丸傍点]曰謂女人爲薄伽(Bhaga 是れ女人の根の義なり)云々としてあるを見ても、明白であるしかし此等は惠果の口授を筆記したものとすれば、惠果自身は、帝釋聲論を用ひたものと云ふになる。
これを要するに、大師の時代は、東方亞細亞に密教の流布して居つた時代で、已に大唐天子の宮廷の宗教となつて居り、適當な傳法の法器を得れば、將さに、日本にも、渡來せんとする時であつた、大師の識見が、善く此の時代の趨勢を察せられて、大唐の長安に入り、大唐の天子の國師であり、帝師であつた不空三藏の密教を、其の付法の弟子惠果より傳へたのであるから、大師の密教は、日本の宮廷にも入るべきであつた、次第で、大師の一生は、よくこれを遂行して、遠くは、金剛智三藏不空三藏の法統たるに恥ちず、近くは、惠果阿闍梨の寄託に負かなかつた、吾輩は一は、大師の爲めに[#「大師の爲めに」に白丸傍点]、惠果のごとき明師を得たことを賀し[#「惠果のごとき明師を得たことを賀し」に白丸傍点]、一は惠果の爲めに[#「惠果の爲めに」に白丸傍点]、大師のごとき法器によりて[#「大師のごとき法器によりて」に白丸傍点]、密教を日出天子の朝廷に扶植し得て[#「密教を日出天子の朝廷に扶植し得て」に白丸傍点]、千百歳の下[#「千百歳の下」に白丸傍点]、なほ法燈の光を[#「法燈の光を」に白丸傍点]、扶桑の東に輝すことを得たのを賀する次第である[#「扶桑の東に輝すことを得たのを賀する次第である」に白丸傍点]。
しかし、吾輩は、大師の性格につきて、今一つ常に感服して、能ふべくんば、私淑したいと思ふことは、大師が、常に山林烟霞の癖のあつたことで、身は、大唐の上都に入りて、天下の大を見、文章才學一世を曠うした身でありながら歸朝の後は、強ひて卿相に攀縁して、天子の寵榮を徼へよともせず、法の爲め國の爲め、營々として盡されて、遂に身は、深山の白雲の中に隱れてしまつた、是れ吾輩の羨望して已む能はざる所である、仄かに聞く所では、今般、二個の古義眞言宗大學が合併せられて、高野山[#「高野山」は底本では「野山」]の方は京都に移ると云ふことであるが、是は、洵に世の進運に順應したことで、眞言宗全體の上から見て、喜ばしい事である、高野山[#「高野山」は底本では「野山」]は大師の入寂せられた所、平安は、大師の修學せられ、又活動せられた所、長安は、大師が天下の大を見られた所で、大師の遺弟たる青年諸君は、すべからく、大師のなせるに傚つて、大學に入りて修學せられ、古の長安に匹敵する倫敦巴里に赴きて、天下の大を見、歸朝して、密教の擁護に力を効されて、功成り、事遂げたのち、野山白雲の深き所に坐して、靜かに法界秘密心の殿中に自適せねばならぬ、終に臨み下手な長談義に諸君の清聽を汚しゝことは、私の幾重にも、諸君の宥恕を請ふ所であります。(完)
底本:「大師の時代」宗祖降誕会本部
1913(大正2)年8月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「ネストリアニズム」等の「ネ」は底本では「子」の形をした変体仮名です。
※「パーラ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]」等の「※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]」は底本では「濁点付き井」の形をした変体仮名です。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月14日作成
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