は、支那人の長安あるばかりでなく、實は、東方亞細亞の民族の首都である、恰も、今日の巴里が、佛蘭西人の首都であると共に、歐州大陸の首都であると同一な趣がある、東は、日本、北は渤海、南は今の印度支那、爪哇、蘇門多羅、西は印度西藏、中央亞細亞、波斯などの民族が、風を望み、化を慕うて、朝宗した所で、萬國の衣冠は、長安に湊つた次第で、長安に起つた風尚は、全支那を支配したのみならず、東方亞細亞一帶の地を支配したのである、又幾多の宗教并に思想が、民族の麕集すると共に、長安に麕集したのである、大師の長安に到着せられて、最初居住せられた所は、西明寺の中であつたことは、大師の文章にも見えてあるが、此の西明寺のあつた坊は、惟ふに、延康坊と云つた所で、其の西南隅にあつた西明寺は、隋の時代に、權威朝野を傾けた楊素の宅の址で、顯慶二年高宗皇帝の時に、皇太子の病が癒えたと云ふので、報謝の爲めに寺を建つることになり、落成の時は、顯慶三年であつたことが、續高徳傳第四、玄奘の傳の下に見えて居る、此寺の建築は、印度の祇園精舍の規模によつたとかで、我朝でも、此の規模に擬して、聖武帝の神龜年間に、唐僧道慈律師が、奈良に建てたの
前へ 次へ
全95ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング