、日本國に於ける、御自身の使命を自覺せられたのは、入唐以前であつたらうが、眞に御自身が、これに堪ゆる天才なることを意識せられたは、入唐後惠果和尚に遭ふた時である、故に惠果の如き明師に遭ふまでは、遠くは法相の玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]や、近くは梵釋寺の永忠などと同じく、二十年の星霜を長安に送らなければ、御自身の目的を達せられないと云ふ考らしかつた、私は、これを以て、大師の御性格が如何に眞摯で、誠實であつたかを想見する次第であり、又今日でも、昔時でも、凡眼は、常に英雄を知らず、己を以て他を推し、洋行したことのあるものは、洋行せないものを一向輕蔑し、又長く洋行して居つたものは、二三年しか洋行したことのなきものを罵りて、少しも十年位は洋行せねばいかぬ、二年や三年では何もならぬなど云ふと同じく、大師入唐以前に、奈良や京都の學匠どもは、定めて、大師に向ひ、二年や三年では、いけない、往くからには、二十年も往くがよいなどと、云はれたことと想像する、大師も不幸にして、日本では、明師に遭はれず、知己にも會せず、成る程と思はれて、留學二十年と定められたことと思ふ。
大師の入唐は、我が朝では
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