も居つて、其の名も、大師には、入唐以前に於て、判明して居つたであらうが、果して、此等の明師が、評判の通りであるか、或は評判の通りであるとしても、快く、自分に、其の法を傳へて呉れる人々であるか、假令ひ傳へて呉るゝものとしても自分は、果して其の器であるか否やは、大師の心頭に不絶往來した問題であつたことゝ思ふ、故にかゝる問題の解决せられぬ以前に、密教將來の大目的を、他に語らるゝやうな大師ではあるまいと、自分は信ずる次第である、しかしこれに依つて、大師が入唐の目的は、密教將來でなかつたと斷ずるは、迂濶千萬の事と私は思ふ、前にも述べた通り、當時日本と支那とは、交通不便の時代であるが、今日の人々の想像するごとく、日本の人々は、支那の事情に暗かつたものではない支那に流布する思想并に趣味は、短日月の間に、日本に波蕩風響し來たものである、日本のことも、比較的支那留學の人々には、速に傳はつたのである、現に大師の入唐に先づ、一年前、即ち延暦二十二年、入寂せられた行賀などは興福寺の別當であつて、法相の學匠であつたが、此の人は、入唐した人である、其の入唐留學の期間は、七年であつたか、或は、其れ以上であつたか、判
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